金井啓子の現代進行形

国家を縛る“縄”が大原則

2017年5月4日

憲法とは何かを考えよう

 幼い頃の私にとって憲法記念日とは「長い連休のうちの1日」に過ぎなかった。憲法というものが私自身の全てに大きな影響をもたらすにもかかわらず、それを実感しづらかったりもした。今もそんな人は結構多いのかもしれない。でも、本当にその内容や仕組みを知らず影響力も分からずにいていいのだろうか。

 憲法は最高法規と言われ、法律の中でも最も強い効力を持つ。民法は私たち個人の権利関係を表したもので、結婚できる年齢や、お金を貸し借りしたときの契約、土地の所有権などについて記されている。刑法は、犯すと罰せられる犯罪の種類や、例えば盗みを犯せばどのような罪に処せられるかが書かれている。

 対して憲法とは、個人や企業、犯罪ではなく、国家の在り方が示されている。簡単に言えば「こんな国にしよう」という指針が憲法であり、その国家の土台になっている。だから、厳密に言うと大日本国帝国憲法と戦後の日本国憲法の時代とでは、同じ日本であっても両者は別の国家なのだ。

 国家が強大な権力を持っていることは言うまでもない。江戸時代にはお上の言うことは絶対で、ときに徳政令を出して借金をチャラにしたり、人の土地を強制的に取り上げたりすることもできた。これは現代でも同じで、警察によって人を拘束することができるし、場合によっては個人の権利や所有物を強制的に奪うこともできる。

 ところが、国家の権力は放っておけばルールを無視したり、ルールを自分流に解釈して好き勝手なことをしてしまう恐れがある。これは古今東西、どの国でも同じことが起こってきた。

 そこで憲法の出番となる。憲法とは国家が勝手なことをしないよう一定の歯止めをかける、いわば“縄”のようなものである。憲法には、国家は「国民に対してこんなことをしてはいけない」「このような義務を果たさないといけない」と定めてあり、いわば国家と個人との契約ともいえる。これは近代民主主義国家の憲法の基本である。

 昨今の世論調査で、憲法改正に前向きな人が増えてきた。戦後から70年以上が経過し、日本国憲法の中にも時代の“寸法”に合わない内容が出てきたのかもしれない。仮に改憲するとして、どの条文をどのように変えるかは国会の議論を待たねばならない。

 ただし、仮に改憲の雰囲気が国民と国会で盛り上がって具代的な改憲案が出てきたとき、そこに個人の権利や自由を制限するような条文が潜んでいたら要注意だ。なぜなら、どの条文をどう変えようとも、近代民主主義国家なら変えてはいけないものが憲法にはあるからだ。それは、憲法とは国家を縛るものであって個人を縛るものではないという基本的な原則である。

 施行から70年の憲法記念日を迎えた昨日。このゴールデンウイークに「憲法とは何か」を考えるひとときがあってもいいかもしれない。

 (近畿大学総合社会学部教授)