金井啓子の現代進行形

席の譲り合いに潜む思惑

2017年8月17日

ケガの功名で人間ウオッチ

 恥ずかしながら、私は下り階段が苦手で大人になってからもよく転ぶ。ここ数年間だけを見ても、バスで料金を払って降りようとした時にステップを踏み外して道路に落ちたし、下りエスカレーターで歩いていたら数段滑り落ちたこともあった。以後はエスカレーターでは決して歩かないようになったが。

 そして、最近では自宅マンションの外階段を踏み外して数段落ちた。幸いにして骨折はしていなかったものの、さまざまな箇所を打撲した上に足首を捻挫した。かなり大きな湿布を貼ってネット状の包帯でとめることになった。

 ところで、私はフェイスブックに日常生活での出来事を書き込んでいる。恥をさらすようだが、今回のケガについても書き込んだところ、普段の書き込みに対してよりも多くの反応が届き、沈みがちだった気持ちが励まされた。

 仕事を休むほどのケガではなかったので、通常通り電車通勤を続けた。両足に大きな包帯をしている私を見たら、席を譲ってくれる人がいるかもしれないと思ったりしたのだが、その状態だった数週間、席を譲られることは一度もなかった。だからと言ってそれを非難したり無理やり席を譲るよう強制しようとは全く思わなかった。むしろ、SNS上では友人に対する優しい言葉をかける一方で、電車の中では無関心というこの状況に興味がわいた。電車の中で私の前に座っていた人たちだって、おそらくはSNSで友人のケガを知れば、ちゅうちょなくお見舞いの言葉をかける人がほとんどだろう。

 それからは、電車の中で私の周りにいる人たちをじっと観察してみた。すると、私のケガそのものに気づいている人がどうやらほとんどいないということに私は気づいたのだ。多くの人たちがスマートフォンに目を落としたり、音楽に聞き入って目をつぶったりしている。どんな人が周りにいるか気づかないのも仕方ないのかもしれないという結論に至った。

 だが、百数十人の大学生が受講している私の講義で、この話をしたところ、異なる見解がいくつも出てきた。自分はいつも席を譲るようにしているという学生もいれば、席を譲ろうとする自分を見る他人の目が気になって「恥ずかしい」という気持ちを持つ学生、席を譲ったら断られて気まずさを味わって譲ることをためらうようになった学生もいた。また、「電車の中では自分以外は赤の他人であって、むしろ“モノ”の状態であるのではないか」という考えを披露してくれる学生もいた。さらに、高齢者など“席を譲られてもおかしくない”存在の人たちの厚かましさを嫌悪する声も上がった。「義務であってはならず、自分の意思で譲るべきだろう」という考えだ。

 私の不注意なケガから始まった今回の人間ウオッチ。たかが座席、されど座席。さまざまな思惑が入り乱れ、一筋縄ではいかないものである。

 (近畿大学総合社会学部教授)