金井啓子の現代進行形

組織も大学も信頼の失墜は一瞬

2018年5月24日

日大問題に見る報道の役割

 日本大学のアメリカンフットボール部の選手が、関西学院大学の選手に悪質なタックルを行った問題で、加害者側の20歳の学生による記者会見が開かれた。私はこの件を個人としてだけでなく、ジャーナリズムを研究対象とする元記者の目、そして大学人としての目でも見ていた。

 まず、ジャーナリズムの観点から今回の件を見ると、スポーツジャーナリズムは今まで何をしていたのだろうかということが頭に浮かんだ。

 日大のアメリカンフットボール部の圧倒的な強さを見れば、深く食い込んで取材していた記者が多いことが容易に想像できる。そうであれば、今回のようなパワハラが潜んでいたこと、しかもこれだけが単独の行為ではなかったであろうことが、記者たちには見えていたと思われるのだ。実際に、同部の強さの陰に問題行動が見え隠れしていたという声は、ずぶの素人の私の所にすら聞こえてきている。

 ジャーナリズムの果たすべき役割が、権力を監視し問題があれば広く知らしめること、弱い立場にある人が不利な状況に追い込まれないようにすることであると考えると、見て見ぬふりをしていた可能性もあるスポーツジャーナリズムの責任は重い。知っていたけれど書かなかったのは、書くほどの価値がないと考えたのか、それとも書くことによる不利益をおもんぱかったのか、いずれにせよあるべき姿とはかけ離れている。これはアメリカンフットボール取材者だけでなく、近年問題が暴かれたレスリングや相撲に関わる記者たちも同じだ。そして、おそらくはまだ表に出ていない同様の問題を抱えているスポーツを取材する人々には、果たすべき役割をいま一度考え直してほしい。

 さて、大学に勤務する者としても今回の件を見ていると書いた。いま最も気になっているのは、全国に数多くいる現役の日大生たちの気持ちだ。自分が母校としてこれから誇り頼っていくはずの存在が、いざという時にこの姿を表すという現実をどう受け止めたらいいのだろうか。

 毎日のように学生と接している私からすると、20歳前後の彼らには若さによる勢いがあるものの、まだまだ弱く、守るべき存在であると実感する。20歳の日大生が、自らの意思によるものとはいえ多くの報道陣の前に立つ姿を見ると、自分の教え子をあのような場に立たせることがあってはならないと強く思う。大学と学生、指導者と学生は、決して対等な関係ではないのだ。

 自校の学生をこのような場に立たせる状況に追い込んだ日大は、選手自身そして多くの現役日大生をさらに苦しめることがないように努めなければならない。ただ、これをひとごとと受け止めることはできないと自戒してもいる。私が勤務する大学で仮に同じような問題が起きた時に、どうすれば今回のような対応をせずにいられるのか、問題が起こる前に考えておきたいと強く思わされる事件だった。

 (近畿大学総合社会学部教授)



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