金井啓子の現代進行形

子ども放任の若い母親にあぜん

2018年10月11日

想像力の欠如で広がる無関心

 私が教員に転じて10年。「人に会うのが仕事」だった記者時代に比べ、出会いが減った気がしていた。でも、ゼミで出会った学生だけでも120人近い。大教室の受講者も入れると、相当な数の学生と出会っていることになる。それでも、できるだけ多種多様な人に出会いたいと願う性格は変わっておらず、異業種の交流会に時々顔を出している。

 今月初め、そのひとつに参加した。居酒屋で飲み食いしつつ話す気楽な集まりで、その日は10人集まった。掘りごたつ式の部屋に上がろうとすると、幼稚園児ぐらいの子どもにぶつかりそうになった。よく見ると1人だけでなく4〜5人いる。2〜3歳とおぼしき子もいた。そのそばには20代前半ぐらいの若い母親らしき女性3人が話に興じていた。

 私が店に着いた午後7時半頃には既にいて、確か9時過ぎに帰って行った。そんな時間に子どもが起きていて大丈夫なのかと心配になったが、仕事の都合上やむを得ないとか、たまにしか集まれない特別な日なのかもしれない、と思って考えるのをやめた。

 だが、気になったのは、彼女たちがあまりに自分たちのおしゃべりに夢中で、子どもが他の客に迷惑をかけても全く無関心なところだった。先ほども書いたように私が子どもにぶつかりそうになったのは、その子が店内を走り回っていたからだった。

 子どもは1カ所にとどまっていられないことは私も知っている。だが、いくら動き回っても母親は全く声をかけない。また、子どもたちが叫んでもいさめない。いや、むしろ母親たちの声が大きすぎて気づかなかったのかもしれない。われわれ10人のお互いの声がよく聞き取れないほどだったのだ。

 親子連れが去って驚くほど静かになった後、彼女たちのこの無関心さはいったいどこから来るのかと考え込んでしまった。おそらく基本的には他者への想像力が欠けているのではないだろうか。子どもや自分たちが騒ぐと、他人にどんな影響を及ぼすのか想像できないのだ。

 そういう親に育てられた子どもたちも、十中八九似たような大人になるだろうから、このまま育つ彼らがかわいそうにも思えた。

 でも、人の振り見てわが振り直さねばならない。考えてみれば、私たちも想像力に欠ける部分がある。たとえば、自転車に乗ったり歩きながらスマートフォンを使う行為が、他人に迷惑をかけるという想像力がない。

 大きな話でいえば沖縄だ。沖縄県知事選は大激戦となったが、その根源にあるとされる沖縄の人々の怒りをわれわれはどれだけ想像できているのか。

 そう考えると、例の母親たちだけを責めているわけにはいかない。想像力が欠けるがゆえに、私だって社会に迷惑をかけていることもあるのだ。多くの人との出会いを求めるならば、想像力を駆使して相手をおもんぱかりたいと思わされる出来事だった。 (近畿大学総合社会学部教授)