澪標 ―みおつくし―

遺骨が引き合わせてくれた かけがえのない出会い

金 和子
在日コリアン青年連合(KEY)事務局スタッフ
2017年4月7日

 前回のコラムで、大学1回生の夏に新聞で見つけた日本・在日・韓国3者の共同イベントで初めて本名を呼ばれたと書きました。そのイベントは「日韓共同ワークショップ」(後に「東アジア共同ワークショップ」と改称)というもので、1997年北海道の強制労働犠牲者の遺骨発掘から始まったグループです。私が参加した99年は舞台を大阪に移し「在日コリアン」をテーマにさまざまなフィールドワークが行われました。

 私は「民族教育」チームに参加し、朝鮮学校・建国学院(韓国系民族学校)・日本の公立学校の中にある民族学級という三つの現場を訪問しました。それまで民族教育について抱いていた「民族とはこうあるべき」と上から強要されるイメージが、実は奪われた言葉を取り戻すべく下から勝ち取ってきた尊い権利であることに気づくことができました。

 2年後の2001年夏、私も遺骨発掘に参加する機会を得ました。北海道の北部で酷寒の地、朱鞠内(シュマリナイ=アイヌ語で「狐の川」もしくは「石の多い川」)では、1937〜43年、ダム建設工事に多数の朝鮮人と日本人タコ部屋労働者が過酷な労働を強いられました。そこで犠牲になった方の遺骨が眠っていることを地元の住職や歴史学者が70年代から調査を続け、90年代に入り民主化した韓国との交流が可能になったことで、日韓の学生たちを集めて一緒に汗を流して歴史認識を共有する取り組みとしてワークショップが始められました。

 遺骨があると考えられたのは、朱鞠内共同墓地の裏のささやぶ周辺。グループごとに区分けして、スコップで掘っていきます。遺骨発掘という重いテーマにもかかわらず、夏休みの旅行気分の私たち学生は、互いに拙い韓国語と日本語で時に冗談を言い合いながら、昼は汗を流し、夜はお酒を飲んで盛り上がりました。

 そうして発掘3日目、ついに遺骨が出てきました。拷問を受けたような、後ろ手にされた形で出てきたその遺骨に、私たちは息をのみました。遺骨を前に、日本人も在日も韓国人も無く、誰からともなく手を強く握り合いながら、遺骨となった方の人生を思って泣きました。そして朝鮮の伝統式の土まんじゅうのお墓を作り、クンジョル(朝鮮式の礼)をしました。続いてアイヌ式、仏式、キリスト教式、参加者それぞれの思いで追悼し、忘れられない一日となりました。

 その後も継続された発掘作業で見つかった遺骨や各地の寺院で納骨されていたものあわせて151体の遺骨を、戦後70年の2015年秋、民間の手で祖国に返す取り組みが行われました。「70年ぶりの里帰り」。当時の朝鮮人が北海道へと連行されてきた道を逆にたどり、10日間かけて各地で追悼式を行いながら玄界灘を渡り、最終的にソウルで大規模な追悼式と納骨が行われました。

 10年、日本政府は韓国併合100年の首相談話で「朝鮮半島出身者の遺骨返還支援といった人道的な協力を今後とも誠実に実施していきます」と表明しましたが実行されることはありませんでした。そしてやむなく民間の手で奉還が行われることとなったのです。

 長年この問題に真摯(しんし)に取り組んでこられた殿平善彦住職をはじめとする尊敬すべき日本の先生方、そしてともに遺骨の前で泣いた日本と韓国の友人たちとの出会いは、私にとってかけがえのないものです。教科書では学ぶことのできない、真の和解のための歴史認識の共有。その経験が、歴史修正主義がはびこる時代にあっても、常に私を支えてくれています。

 (キム・ファジャ、大阪市此花区)