澪標 ―みおつくし―

義父の回想録

池本  ニルミニ
一般社団法人SaaMa―スリランカ・スパイス&ハーブ理事長
2017年5月19日
スリランカで命を亡くした日本人の名前が書かれている看板

 私の義父の池本重光は、今年の3月に88歳になりました。スリランカに行くときは日本からの直行便は嫌いです。それは9時間もたばこを我慢することができないからです。彼は毎日のようにまぐろの刺し身を食べて、ビールを飲んで、軽いたばこと言いながら、一日1箱のたばこを吸ってのんびりと生活をしています。

 彼の若い頃の話を聞きました。

 「僕は上新庄の駅の裏の学校に8年間通ったんだ。卒業後は鉄道整備の仕事をしたかったんだけど、日本では募集が終わっていたので満州に行くことにした。下関から韓国の釜山を経由してユウガクジョウに着いた。ここではみな1カ月間の訓練を受けて、その後、それぞれの場所に分かれて行った。僕は、コロトという小さな町で大きな寮で寝起きしながら1年間を過ごしたんだ。昼までは中国語を習い、昼からは機関車整備の仕事をする毎日だった。

 僕たち見習いには1カ月10円のお金が支給されたけど、そのうち半分は『帰国の時に渡す』と言われて預けさせられた。でも帰国のときに返してもらった人はいなかったと思うよ。毎日の生活用品は無料で支給されたけど、それだけでは足りなくて、おなかはすくし落花生も食べたいから自分たちに支給された地下足袋・軍足・軍手・せっけん・タオルなんかを中国人たちに売ってお金に換えて飢えをしのいだりしたなぁ。そして、自分たちは古くて穴の開いた靴や靴下で寒い中我慢したんだ。あの時は本当につらかった。

 ただ、先輩たちから『布団だけは帰るときの旅費のために売らないほうがいい』と聞いていたから、布団だけは売らずに大事にしたよ。その後キンシュウで1年を過ごした頃には、日本での戦況も激しくなって、みんな家族の事が気になりだしたんだ。でも、帰れる状態でもなく僕は家族に頼んで『母が死にかけている』という電報を打ってもらうことにした。そしてやっと局長から『1カ月後に必ず帰ってくる』という条件で帰国を許されたときは内心ホッとしたなぁ。

 釜山と下関をつなぐ関釜連絡船に乗って帰ったんだけど、当時連絡船はアメリカの潜水艦に狙われていて、僕が帰国した後で聞いた話だと、その二隻の関釜連絡船は大勢の日本人が乗ったまま沈められたそうで、僕は本当に運がよかったよ。そして汽車で2日かかってやっと家に帰れたんだ。日本に戻ったものの神戸は空襲であちこちが燃えていて、誰が生きていて誰が死んでいるのかわからないくらいの状態で、結局僕は満州に戻る必要はなくなったんだ。今思い出すといろいろあったなぁ」

 私は彼に問い掛けます。「お義父さんも戦争で大変な思いをしたんだね。ところで、お義父さんは、日本軍がイギリスの基地があるスリランカを攻撃したのを知っていますか? その時の攻撃で亡くなった日本兵の遺骨が今でもスリランカに眠っているんですよ」と。

 さて、皆さんは一人のスリランカ人のおかげで、今の平和な日本があるという話を知っていますか? 次回はその話をします。

 5月1日に私のお店スリランカレストラン「ニルミニ」がオープンしました。守口市長やたくさんの人がかけつけてくださり、私もスリランカのおいしい食べ物や文化を伝えたいと、皆さまをお待ちしています。どうぞお越しくださいね。

 (いけもと・ニルミニ、大阪市東淀川区)

 ■スリランカレストラン「ニルミニ」 守口市金下町1丁目1の9、電話080(2401)8080



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