澪標 ―みおつくし―

岸和田紡績の女工さんたちに導かれて

金 和子
在日コリアン青年連合(KEY)事務局スタッフ
2017年6月30日

 「生まれ変わってもまた女に生まれたい」。祖母が生前、母に語った言葉です。寡黙だった祖母だけに、この一言にどんな思いが込められていたのか。光州の田舎に生まれ、学校にも通えず10代で嫁入り、渡日。漢字やかなはもちろんハングルも読めず、読めるのは時計の文字盤と値札だけ。社交的な祖父からは、時に「家のことしか知らない」となじられることもあったそうです。そんな環境でもよく働きキレイ好きで、静かに私たちをかわいがってくれた祖母。苦労しても、女の人生に誇りを持ってきた、そんな祖母を私はすてきだと思います。

 在日女性の人生は、ほぼ家庭内での悲喜こもごもで、文字に残されることも無ければ歴史の主役になることも無かったように思えます。しかし実は、在日の形成史は女性たちのさまざまなネットワークが基礎を作ってきた部分が大きいようです。

 その象徴とも言えるのが、岸和田紡績の朝鮮人女工たちの闘いです。今から100年以上前の1918年頃から、数え12歳といった少女たちが、植民地支配による貧困を背景に、口減らしとして、あるいは日本に来たら勉強できると聞いて、済州島や朝鮮半島南部から海を越えて渡ってきました。

 女工たちは沖縄、奄美、五島列島、被差別部落などからも集められ、みな日本の産業発展のために安く使われましたが、なかでも朝鮮人女工はわざと調子の悪い機械をあてがわれるなどして、より低賃金の状態に置かれていました。

 24時間稼働する工場で昼夜2交代の長時間労働、不衛生な寄宿舎、粗末な食事。逃亡や病死もありました。そんな中でも、月1回の工場の休みに朝鮮教会(在日大韓基督教会の前身)でお祈りしたり、ハングルの夜学を開いて集まっていた女工たちがいました。

 1930年、岸和田紡績は世界恐慌を背景に大規模なリストラと賃下げを実施、それに抵抗する大きな労働争議が起こりましたが、闘いの土台となったのは日々の女工たちのコミュニティーでした。労働争議の現場となった岸和田紡績堺工場は、現在の南海本線堺駅前の戎島団地で、争議の際に女工たちが立てこもった場所は私の実家がある七道だったことが分かりました。

 私の両親は西成生まれで、この闘いに直接のルーツはありませんが、何か縁があるように思えてなりません。現在、社会人として働きながら、平日夜や週末にコミュニティー活動をしている私は、もしかしたら女工さんたちに導かれているのかもしれません。

 堺工場での労働争議は警察の弾圧も受けて敗北しましたが、岸和田紡績の二代目社長として弾圧する側であった寺田甚吉氏(南海電鉄の社長や岸和田市長も務めた)は、戦後47年、朝鮮人の民族教育のために土地を無償で提供しました。それが岸和田朝鮮人小学校です。女工たちの闘いが、南大阪の民族教育の礎を作ったのです。その地も今はマンションとなっていますが、ずっと語り継いでいきたい歴史です。

 (キム・ファジャ、大阪市此花区)