澪標 ―みおつくし―

猛暑で砂漠化する日本とイラン

ダリア・アナビアン
ペルシャ文化の語り部
2018年9月14日

 「海のシルクロード」を提唱された陶磁器研究者、三杉隆敏先生が私の故郷イランの過酷な夏について、書き残してくださった手紙があります。

 「1964年が私の最初のイランへの旅であった。朝起きると、北側の山を見て驚いた。茶一色の山肌に春の残雪がまだらに残っている。とても気持ちのよい気温である。ところが10時頃になるとほとんど40度で、砂漠に出ると52・3度。

 最近、日本の夏の暑さを新聞テレビも大騒ぎ。でも、イランの暑さを私は知っていた。毎日晴天、そんなところに美術品が、それも幾千年間も育ったのだろうかと不思議に思った。

 イラン国立考古学博物館(イーゼ・イラン・バースータン)を訪れ、驚いたのは公の役所も博物館も午前8時から午前10時までオープン。『あとは又明日のこと』となる。

 夕方の涼しさが来るまではみなさん、涼しい日干し煉瓦(れんが)の家でひっそりと時間を費やす。働き者の日本人には大変な驚きであった。お昼になるとトボトボと坂の上のホテルに帰る。そんなとき『日本人ですか?紅茶はいかがですか』と声をかけてくれたのがラヒム・アナビアンであった。『白い塊の砂糖を口に含んで、少しずつ紅茶をのむのだよ』と教えてくださったのも、ラヒムおじさんであった。

 だんだんと仲良しになる。ペルシャの古美術について、いろいろと教えてくださった。天井まで積まれた膨大な美術品の数々のなかで私の目に飛び込んできたカシミールショールの一群があった。その一群こそ、ペルシャでもカシミールでもほとんどが見捨てられたものであった。その技法と文様の美しさを世界に先駆けてコレクションとして発表したのがラヒム・アナビアンである。そして、それを世界の人々が認めたのであった

 それから幾年後であったろうか、アナビアン一家がひょっこり神戸に現れた。

 アナビアン・ファミリーとはアメリカでも日本のあちこちでも出会ったし、ラヒムさんは亡くなったがダリアちゃんも大きくなった。当時、4歳だったのに…」

 私の祖父の時代のイランは、なんてゆとりがあったのでしょう。昼は家に戻り、手料理を食べてから昼寝をし、仕事に戻ったのです。そのころは、三杉隆敏先生もイランへ発掘調査によく出かけられ、40冊もの本を出版されました。

 日本の考古学者、小説家、いろんな文化人の情熱と努力により、経済大国昭和の日本と王制石油大国イランとの交流でシルクロードブームが起こりました。

 現代日本のいつまでも脱出できない不景気で大学進学、マイカー、マイホームを諦めざるを得ない階層の増加。イランは一千倍以上の物価上昇、土と水を他国に販売したため国民の飲み水がなくなり、国土の一部を中国やインドに売却。40年の独裁政権の間に60万個の歴史的文化財が遺跡や博物館から消えています。ロンドンのオークションのカタログで多くの国宝級の美術品が売りに出されていることをよく目にします。

 旧約聖書に記された第5章「エキソドス」でモーセが約束された土地を求めて、40年間砂漠をさまよったようにイラン国民も砂漠化されたイランから脱出する解放運動を起こしています。路上で女性が自由を表明するためにベールを外し、革命防衛隊に拘束されて不明な場所へ連れていかれてもベールを外し続けます。機動隊の弾圧している姿をデモ隊が写真に撮り「覚えてろよ!政権が倒れたときに君たちの顔が残るぞ!」と叫び、ネットで流します。イランの経済の中心であるバザールを閉鎖し、ドライバーたちが警笛を一斉に鳴らし続け、公共の場所のスピーカーを利用し「国民は貧困にあえぎ、坊主政権は神様のような生活をしている!」等の抗議を流します。

 信仰の自由、男女平等、世界で初めての人権宣言をした古代ペルシャ文明が21世紀になって人権保障皆無の国になってしまったことが、イラン復活運動を命がけで戦う原動力になっています。

 日本でも改革すべき課題が山積みしていますが、何が起爆剤になって日本国民を立ち上がらせるのでしょう。

  (神戸市中央区)