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澪標 ―みおつくし―





 

大阪府文化財愛護推進委員  
足代 健二郎
2005/10/28

猪飼野合衆国

 わたしが生まれ育った「生野区猪飼野」の地名は、昭和四十八(一九七三)年、住居表示施行に伴う町名変更によって公式には一応消えて無くなった。

 しかしこの地名は今も多くの人々に愛されているが故に、人々の記憶から消え去るという日は未来永劫(えいごう)に来ないだろうと思う。

 「猪飼野」は、日本書紀仁徳天皇十四年の条に「猪甘(いかい)の津に橋わたす」と記された、由緒ある地名である。

 このことを、古くからこの地に住む地元住民は誇りに思っている。旧・猪飼野村の青年組織(若中=わかなか=と称した)の伝統を受け継いでいる『猪飼野保存会』の古参の人たちの意識がその代表格といえよう。

 大正時代の中ごろまではのどかな一農村にすぎなかったこの猪飼野村の広大な水田が「鶴橋耕地整理」の後、急速に宅地化され、そこに各地から多くの人たちが流入してきた。わたしの父も含め、旧村民を除けばここでは古株の部類に入る旧・猪飼野町の住人はこの時移住してきた新参組である。

 現在、猪飼野の地は日本最大の在日コリアン集住地として名高いが、その最初の人たちは、主として大正十一年以降の渡来組だ。この年、“君ヶ代丸”で有名な済州島−大阪直行便が開かれ、それ以降、大勢のコリアンたちが続々と流入してきたのである。(“強制連行”ではない)

 極めて大ざっぱではあるが、旧・猪飼野町の住人は、分かりやすくいえばこのように三つのグループに大別される。(戦後の在日『新一世』『新々一世』らのことは省略した)

 この、初期の渡来組の人たちは、日韓併合(↓土地没収)の被害者たちであって、日本へ出稼ぎに来るぐらいであるから、当然、極めて貧しかった。

 日本人の在日に対する偏見は、彼らの極度の貧困やそのための無教育、抑圧への反動による粗暴な行動、これに加えて日清・日露に戦勝以来の日本人のおごり、に主な原因があったように思う。

 朝鮮半島の人々や文物に対する嫌悪感などというものは日本には本来無かったものである。

 昨今の韓流ブームがその何よりの証拠であるし、当地の古名とされる百済野・百済川、中央区の高麗橋、近江の朝鮮人街道等々、例証を上げれば枚挙にいとまがない。

 猪飼野のほぼ中央に位置する「御幸通り商店街」の中心部はかつて“朝鮮市場”といって単なる在日向けの市場だった。

 しかし、平成五年に韓国風の美しいゲートが建ちカラーれんがで舗装された華やかな“コリアタウン”に生まれ変わった。店舗もどんどん豪華になってきている。韓流ブームとの相乗作用で団体客もひっきりなしに来る。

 この商店街は東・中央・西の三つから成るが、中央は「コリアジャパン・共生まつり」、東は「コリアタウン・猪飼野こどもまつり」の名で近々それぞれイベントを行う予定だそうだ。後者は“猪飼野”の地を日韓交流の原点と位置付けている。

 また最近、韓国ソウルからの女子留学生(姜信英さん)が卒論に“猪飼野”のことを書くためにいろいろと取材に走り回っている。

 このように多彩な表情を持つこの町を、わたしは“猪飼野合衆国”と勝手に名付けて面白がっている。

 (大阪市生野区鶴橋五)

  ◇  ◇  ◇

 あじろ けんじろう 1942年、大阪市猪飼野生まれ。もと神道史学会、式内社研究会会員。郷土誌いくの刊行会・猪飼野郷土誌・玉造稲荷神社誌編纂(さん)委員。「司馬遼太郎の原点−猪飼野の新世界新聞社」そのほかを雑誌に掲載。「松下幸之助起業の地」顕彰会事務局長。目下その記念誌および御幸森天神宮1600年記念誌・巽神社合祀(ごうし)100年誌編纂中。古書・あじろ書林店主。

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