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澪標 ―みおつくし―





 

大阪府文化財愛護推進委員  
足代 健二郎
2006/01/31

司馬遼太郎の鶴橋・猪飼野

 わたしは以前、自分の所属する古書業界紙に「猪飼野の司馬遼太郎」という文章を書いて載せたことがある。

 これはのちに、組合のホームページ(大阪古書店ネット『エッセイ集』)にも載せられ、また『古本屋人生』という本や郷土雑誌『河内どんこう』にも転載された。(後者では「司馬さんのいた町のこと−鶴橋編−」と改題。守口編・八尾編などとともに第63〜64号の二回に連載)

 自分で言うのもおかしいが、わたしの書いた駄文にしては、珍しく“うけた”作品といえる。題材が非常によかったためであろう。

 さて、最近になって知ったのだが、『司馬遼太郎とその時代』(戦中編)(戦後編)というなかなか素晴らしい本(延吉実著・青弓社・二〇〇三年)が出ており、その(戦後編)中に、「猪飼野」という一節がある。そこにわたしの「鶴橋編」の文章が所々引用されていた。これはわたしとしては研究者冥利(みょうり)に尽きる、誠にうれしい出来事であった。

 しかし、わたしがのちに鶴橋編の続編として書いた「司馬遼太郎の原点−猪飼野の新世界新聞社」の方は、その掲載誌があまりにもマイナーだったために、残念ながら延吉氏の目に留まらなかったようだ。

 そこで、以下、(1)拙稿「鶴橋編」と〈延吉説〉との対比(2)拙稿「猪飼野の新世界新聞社」−この二点について述べてみたい。

 司馬さんの足跡を忠実にたどろうとすれば、どうしてもご本人の記述や発言以外の角度からのアプローチが必要となってくる。またそうでなければ研究の名に値しないであろう。延吉氏のこの著作は、一面的な司馬さん賛美ではなく、人間福田定一(さだいち・本名)の実像に迫ろうとしたレベルの高い労作である。

 超一流の人物なればこそ研究の対象となるのであるし、新知見こそ読者の求めるものであろう。

 まず、(1)司馬さんは公式には、大正十二(一九二三)年八月七日、現・浪速区塩草で出生、となっている。

 司馬さんの父、福田是定氏は大正後期〜昭和二年、生野区の鶴橋本通りで「福田薬局」を経営されており、司馬さんご自身については、昭和二年四月以前の一時期、この場所で近所の女の子と仲良く遊んでいたという事実が確認されている。(司馬さんは三歳までは母方の里である奈良県の竹之内で育てられた、とあるので、その後の何カ月かの間と推定している)

 従って、司馬さんのお父さんは塩草の住まいから鶴橋の薬局まで通っておられたのであろう、というのがわたしの解釈であった。

 ところが、延吉氏の説によれば、この薬局の番地こそ司馬さんの本当の出生地である、としてその根拠をあげて説明されている。(詳細については本書を参照されたい)

 次に、(2)司馬さんが戦地からの復員後、初めて勤めた新聞社の名について、『新聞記者 司馬遼太郎』(産経新聞社・一九九七年)が“新世界新聞社”と記述している点について、延吉氏は「これは恐らく誤りで、東成区東小橋三丁目にあった“民衆新聞社”ではなかったか」としている。この推測は、司馬さんの尋常小学校時代からの友人Y氏の証言に基づくものであるが、わたしは逆に、これは九分九厘Y氏の思い違いだと思っている。

 なぜかというと、わたしは生野区猪飼野東五丁目八にあった“新世界新聞社”についての情報を多少把握しているからである。

 ここで紙幅が尽きてしまった。詳細はまた次回に−。(あじろ けんじろう 大阪市生野区鶴橋五)

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