トップ企画コラム連載・特集    

  トップ > 連載・特集 > 澪標 ―みおつくし―
 




 
澪標 ―みおつくし―





 

建築家・1級建築士  
円満字 洋介
2007/01/30

笑うこま犬(1)

 「笑うこま犬」。どことなく笑っているように見えるので、わたしはそう呼んでいる。こま犬の中でもレア種だ。胴長短足で顔が大きい。そして、耳元まで裂けた大きな口で笑っている。今まで大阪を中心に六体を確認した。探せばもっとあるだろう。スケッチのこいつは、大阪天王寺の安居天満宮に据えられている。前脚をきゅっと踏ん張りながら笑っている。

 宝暦十二(一七六二)年と台座にある。結構古い。笑うこま犬コレクションの中で今のところ最古。そもそも十八世紀のこま犬が、こうして残っていること自体よほど珍しいのだ。後で知ったことだが、こいつは浪華型狛犬(こまいぬ)の古い作例として有名なのだそうだ。

 人間ではないものの笑い。笑うこま犬にはそれがよく表れている。「不思議の国のアリス」に登場するチェシャ猫の笑いに似ている。人間とは別の世界にすみ、人間とは別の判断基準で行動する。それはどちらかといえば恐ろしげなものたちだ。笑うこま犬には、そうした人間ではないものの感じがよく出ている。

 こんな笑い顔を作ることは、実はなかなか難しい。鎌倉時代の仏師である湛慶の木彫狛犬も、こんなふうに笑っている。ひょっとするとモデルになった犬の喜びようまで写し取ってしまったのか。表情まで写してしまうとはさすが達人。笑うこま犬もそんな達人の手になったと考えてよい。こうした第一級の芸術品がさりげなく街角にあることは、実はとんでもなくぜいたくなことだ。

 それにしても、なぜ右耳が欠けているのだろう。スケッチするまで気付かなかった。スケッチの点線で補った部分が欠け落ちている。背後に回ってその理由が分かった。こいつは火にあぶられたらしい。焼かれた花こう岩は薄皮をはがすように欠ける。こいつの背後はそんなふうにはがれて落ちている。

 大阪大空襲で安居天満宮も燃えたそうだ。こいつのすぐ後ろで崩れ落ちた社殿が燃え続けたのだろう。それでもこいつは倒れなかった。そのため背中だけが強く焼けたようだ。洗ってもらったので今はきれいだが、よく見ると所々黒いすすが残っているのが分かる。焼夷(しょうい)弾特有の油煙による黒すすだ。正面の胸の飾り毛のところもちょっと黒い。でも、こいつはそんなことはおかまいなしに、今でもマスターを守る気満々だ。

 数世紀にわたって、こいつは数々の危機を乗り越えてきたはずだ。中でも大空襲は大ピンチだったに違いない。こいつも真っ黒になってしまって、これからどうなることかと心細く思ったろう。しかし、その時も人間が救い出してくれた。風景は人が守らねばすぐに消えてしまう。こいつが数世紀にわたって、ここにあり続けているという事実は、風景を守ろうとした人間がこれまで何人もいたことの証しだろう。そんなわけで、こいつは右耳を失ったが、今もこうして笑っているのである。

 (京都府向日市)
<< 「澪標」トップページへ

  トップ > 連載・特集 > 澪標 ―みおつくし―
本ページ内に掲載の記事・写真など一切の無断転載を禁じます。
すべての記事・写真の著作権は(株)ザ・プレス大阪に帰属します。