連載・特集

なにわ人物伝 −光彩を放つ−

藤原 家隆(下)

2009年3月28日

日想観修め夕陽拝み死去 晩年に芸術的香気高い名歌

家隆塚(改修前)=1965年ごろ、大阪市天王寺区
三善 貞司

 承久三(一二二一)年、「承久の変」で敗れた後鳥羽院は隠岐島に流され、院に重用された藤原家隆は、鎌倉幕府から嫌われる。一方、家隆の師匠藤原俊成の嫡子家定は幕府のおぼえめでたく、正二位権中納言に昇進、宮廷歌壇の頂点に立った。

 個性派で偏屈な定家だが、かつて院の勅命で『新古今和歌集』を編纂(へんさん)したとき、片腕になって働いてくれた家隆には同情し、彼の「幾里か月の光も匂(にお)ふらむ梅咲く山の峰の春風」という詠歌を、「古今稀(まれ)な絶唱なり」と高く評価し、自分が編んだ『新勅撰和歌集』に誰よりも多く家隆の作歌を収録している。

 定家は官位に執着したが、家隆はあまり関心を示さなかった。四十九歳でやっと「宮内卿」に任官されたとき、知人の源家長が祝歌を届けるまで知らなかったという。歌風は『続歌仙落書』に「気高くやさしく艶(えん)なるさま」、『正徹物語』に「詞利きて気骨を詠む」と記されているように、平明だが気品の漂うものであった。また、頓阿(とんあ)(二条家歌学を再興した歌僧)の『井蛙抄(せいあしょう)』には「家隆詠歌六万程」とあり、驚くほど多作の歌人でもある。

 ある日、親しい西行は「貴殿の歌はいいが見聞が狭い。日常生活ばかりが題材で惜しまれる。そうだ、旅に出ないか」と誘うと、「いつか我苔(われこけ)のたもとに露おきて知らぬ山路の月を見るべき」と答えている。身辺雑詠ばかりの自作を恥じていたのかもしれぬ。

 そんな家隆が後に幽玄体と呼ばれる芸術的香気を放つ名歌を詠みだしたのは、古希に達してからだ。なかでも寛喜元(一二二九)年、後堀河天皇に入内(じゅだい)した藻壁門院(そうへきもんいん)(関白藤原道家女(むすめ))の依頼に応じた屏風(びょうぶ)歌「風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける」は、朝廷の大評判となった。上賀茂神社の御手洗(みたらし)川で行われる六月祓(みなづきばらえ)(晩夏に身体を水で浄(きよ)め汚れを除く神事)のさわやかな風情がたくみに表現され、今も「百人一首」で愛誦(あいしょう)される秀歌である。

 嘉禎元(一二三五)年、従二位に昇進した家隆は、七十七歳という稀な高齢を自覚、翌二年すべてを捨てて出家、仏性と号し「日想観」を修めるため難波に移る。初めての旅だ。日想観とは海に沈む夕陽(ゆうひ)を拝みながら、浄土極楽往生を願う修行である。

 この時代は厳しい階級制度と戦乱による秩序の崩壊で社会矛盾は強まり、人々は現世を嫌忌し彼岸に設けたユートピア極楽に、ひたすら往生を願おうとした。西方浄土というからには極楽は西の方だと想定し、夕陽を追って移動する「極楽まいり」が流行する。

 そんな人たちは海岸線が来ていた四天王寺(大阪市天王寺区)あたりの上町台地から、水平線に沈んでいく夕陽を見て荘厳さに驚嘆した。海を知らなかった都人はその地に座り込み、念仏を唱えて仏に浄土往生を願う。これが日想観で、法然や親鸞、日蓮たちも当地で日想観を修している。

 家隆はとある小丘に「夕陽庵(あん)」という小庵を構え、飲食も制限して夕陽を見つめながら合掌し、念仏を唱え続けた。『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』によれば、「契りあれば難波(なにわ)の里に宿りきて波の入日を拝みつるかな」「難波海を雲井になして拝むれば遠くも見えず弥陀の御国は」「かくばかり契りまします阿弥陀仏(あみだぶつ)を知らで悲しき年を経にける」などの七首を詠じ、同三年四月八日酉刻(とりのこく)(午後六時ごろ)、念願通り夕陽を拝みながら静かに息をひきとった。享年七十九。

 家隆が埋葬されたと伝える小墳丘(同市天王寺区夕陽丘町)は「家隆(かりゅう)塚」と呼ばれ、享保六年、彼を敬う僧盛順が顕彰碑を建立した。碑文は風化して判読困難だが、『大阪府全志』や『大阪訪碑録』に全文が出ている。家隆塚は長い間荒れていたが、近年美しく整備された。

(地域史研究者)

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