連載・特集

なにわ人物伝 −光彩を放つ−

沖野忠雄(下)

2009年8月22日

悪戦苦闘18年 淀川改修 碑文に「中国治水の神に匹敵」

洗堰=大阪市北区の淀川工事事務所
三善 貞司

 明治30(1897)年の秋から始まった「淀川改良工事」は、筆舌では表せない悪戦苦闘を経て、同42年、増築・補修の部分を除いてほぼ完了した。予定より2年遅れ、総工費は予算をはるかに超過した1009万400円。同年6月1日毛馬(けま)(大阪市都島区)で竣工(しゅんこう)祝賀式を開くが、金がない。仕方なく大阪市から2万円、郡部から1万円余の募金を求めたところ、大阪市民の寄付はたったの6500円であった。洪水は大丈夫やろが、市内の水位が下がって物が運ばれへん−との不満が残ったのが原因だ。

 工事の最高責任者第4区(関西)土木監督署長沖野忠雄は、着任したのが37歳、竣工式出席が55歳。実に人生の成熟時代の18年間を、ひたすら淀川改修に投じたことになる。淀川改修工事はもちろんこの後も行われる。大正6(1917)年の大冠(おおかんむり)村(大阪府高槻市)の堤防決壊も大惨事となり、淀川が「母なる大河」とか「大阪のセーヌ川」とか呼ばれるまでには、まだまだ時間がかかっている。しかし先駆けとなったデ・レーケと沖野忠雄の功績は、永遠に語り継がれるべきであろう。

 淀川改修をやり遂げた忠雄は、元大阪府知事西村捨三の終生の念願だった大阪港の造築に取り掛かり失敗するが、これは次回に譲りたい。その後再び渡仏してパリ万博道路会議に出席。同4年には明治神宮造営事業に参加して成功。同6年には中国政府に招かれ水害調査にあたり、改修工事計画表を作成するなど、生涯土木工事一筋に生きた。同10年3月、67歳没。これといった逸話はない。

 淀川工事事務所毛馬出張所(大阪市北区長柄東3丁目)に、忠雄が苦心して製作した洗堰(あらいぜき)(水量調節のため川を横切って設ける堰)の一部と閘門(こうもん)(高低差のある水面に船舶を昇降させる装置)が保存され、少し離れたところに「沖野忠雄胸像」と「淀川改修紀功碑」が立っている。

 紀功碑には、「中国治水の神禹王(うおう)の功績に匹敵する。我々(われわれ)が洪水に悩まされずに生業に励めるのは、彼のおかげである」といった内容を、文人西村天囚(てんしゅう)(時彦)が見事な漢文で刻んでいる。

 禹王は中国古代の伝説的聖王で、夏(か)王朝の開祖。堯(ぎょう)王の頼みで誰もがやれなかった治水事業をやり遂げ、堯から帝位を譲り受けた人物だが、本当に忠雄は日本の禹だ。

 余白を利用して忠雄に大きな影響を与えたデ・レーケ(本連載428〜430回参照)の晩年を紹介しておく。彼は淀川改修に失敗した後、明治36年に帰国するまで日本に滞在。京都府の不動川工事や岐阜県の九頭竜川河口開削、木曽川や筑後川の改修計画案作成などをやり遂げ、30年間も異国の人たちのために尽力した。

 伊藤博文、山県有朋、松方正義ら明治政府の大物の信頼も厚く、母国オランダに帰るとき金一封と明治天皇から感謝状を贈られている。オランダも皇室のある国家だ。デ・レーケは天皇署名入りの感謝状をかかえて、苦労のかいがあったと大喜びしたという。大正2年死亡。享年71。

 平成12(2000)年は、日本がオランダと親善交流を始めて400年になる。大阪市では友好記念行事の一つに、市立美術館でフェルメールの「青いターバンの少女」が初公開され、大人気を集めた。琵琶湖工事事務所でもデ・レーケの孫娘マリア・デ・レーケ(当時69歳)を招き、大津市内に残っているデ・レーケ砂防工事跡に案内する。

 マリアさんは大喜びし、手のひらいっぱい土砂をすくって「こんにちは、おじいちゃん」と土砂に語り掛けたと新聞記事に出る。

(地域史研究者)

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