連載・特集

なにわ人物伝 −光彩を放つ−

上田 秋成(1)

2009年10月3日

幼少より学問・文芸に熱中 26歳で初恋、最愛の妻に

上田秋成画像
三善 貞司

 名作『雨月物語』の作者。江戸時代の大坂を代表する作家だが、あの本居宣長(もとおりのりなが)でさえ手を焼いた国学者でもある。ただし、偏狭な性格が災いし、その一生は不幸であった。本当は没後200年で、再評価がなされている。

 秋成は享保19(1734)年、曽根崎(大阪市北区)で生まれた。「実父生死知ラズ 実母只(ただ)一面ノミ」と自分で記しており、両親とも不明。曽根崎新地の遊女の子だとか、捨て子だったとかの憶測もあるが、近年研究が進み、父は江戸の旗本小堀政報(まさつぐ)、母は大和国名柄(ながら)村(奈良県御所市)庄屋末吉家の娘との説が浮上する。

 政報は道楽者で放蕩(ほうとう)が過ぎ、怒った父親が江戸から追放、領地の名柄村で謹慎させていたところ、世話をした庄屋の娘と親しくなったそうだ。風聞を恐れた庄屋は、奉公に来ていた女の実家が曽根崎にあったので娘をそこへ預け、出産した男の子をすぐ里子に出す。それが秋成だとの説である。もし事実なら政報の先祖は小堀遠州だから、秋成の芸術的天分はその血を受け継いだのかもしれぬ。

 実父は不明だが、実母は大和から大坂に来て「鎌倉屋」と称する商店を経営した松尾九兵衛の娘ヲサキだ、との別説もある。いずれにしても秋成は「四歳ニシテ母亦我(またわれ)ヲ捨(すつ)」とも書いており、父だけではなく母からも見放されたとのひがみを、終生いだいていたことが分かる。

 しかし実際は捨て子ではなく、幼少のおり堂島永楽(大阪市北区堂島1丁目)の紙油商「嶋屋」の主人上田茂助の養子になり、仙次郎と名付けられ、たいそうかわいがられている。嶋屋の位置は、移転前の毎日新聞社のあった辺りだ。ところが元文4(39)年、天然痘が流行したとき、5歳の仙次郎も感染し、医師もサジを投げる危篤状態となる。

 泣き叫んだ茂助夫婦は、普段から信仰していた加島稲荷(いなり)(香具波志(かぐはし)神社、同市淀川区加島4丁目)に必死になって祈願する。満願の夜、夢に神が現れ「ならば60年の寿命を与えよう」とのお告げがある。不思議なことに翌朝から熱は下がり、奇跡的に一命をとりとめた。後に秋成は「医云(い)フ 生路ナシト 悲泣ニ堪(た)ヘズ 此(こ)ノ神祠(しんし)ニ走リ 丹精ヲ以(もっ)テ助命ヲ乞(こ)フ 九死ヨリ 出(い)ヅ 旬日経テ癒(い)ユ」と書いて深く加島稲荷を信仰し、神職藤氏一族と親交を結んでいる。

 ただし肌に傷痕(しょうこん)が残り、右中指と左人さし指が短くなる。剪枝畸人(せんしきじん)とか無腸(むちょう)(蟹(かに)のこと)などの自虐的な号は、ここから生じる。

 幸い物質的な生活は豊かだったから彼は障害にくじけず、学問・文芸に熱中する。俳諧・和歌・絵画も達者。本格的に国学を学び、大坂一の学問所懐徳(かいとく)堂にも通って五井蘭洲(らんしゅう)に師事。また独学で万巻の書物を読破して大変な知識と教養を身に付けた。ただ病弱でわがまま、好き嫌いが激しく反抗的。仲間との折り合いが悪く、すぐ師匠にもくってかかる嫌われタイプであった。

 宝暦10(60)年、26歳の秋成は初めて恋をする。相手は上田家に行儀見習いに来ていた六つ年下の「たま」という娘さんだ。たまは京の九条の農家の生まれだが、わけあって大坂の商家植山家の養女となり、植山家の主人と茂助が親しかったことから嶋屋に奉公し、嫁入り修業に励んでいた。秋成とたまはともに実父母を知らず、境遇が似ていることから親しくなったようだが、劣等感のある秋成は容易に言い出せない。とうとうある日、思いきって文を彼女の袖に押し込むと翌日、たまはにこにこしながら「顔や体は年をとれば変わります。私はそんなことより清らかな心が大好きです」と話し掛ける。それからはひねくれ者の秋成も、たまの言うことだけは素直に聞いた。彼女が最愛の妻瑚※(これ)である。

(地域史研究者)

 ※は王に連