連載・特集

なにわ人物伝 −光彩を放つ−

造幣局の人たち(3)

2010年11月27日

近代貨幣第1号彫り上げ 超一流の芸術彫金

加納夏雄の20円金貨=造幣局提供
三善 貞司

 明治4(1871)年、造幣局技師加納夏雄は、日本の近代貨幣第1号二十圓(えん)金貨の原型を、指先一本で彫り上げた。直径3・52センチ、重さ33・3グラム。表は竜、裏は旭日を中央に菊花と菊紋・桐紋を配し、錦の御旗の加わったデザインに、誰もが目をむいた。貨幣というより超一流の芸術彫金であった。

 それでも西洋かぶれの政府高官は、これを見本にイギリスに送って金属の原板を作らせるように命じる。話を聞いた造幣局建設主任ウオートルスは怒りだし、「バカなことをするな。日本人の指先は世界一だ。誰がナツオに及ぼうぞ」と怒鳴りつける。ウオートルスといえば、あの銀座赤煉瓦(れんが)街を建築した有名な技師で、驚くほどの高給をとり、プライドが高く日本人を小ばかにしていた男だ。その彼がこれほども夏雄を褒めたたえたのである。

 結局夏雄は金属原板化もひとりでやり遂げるが、この金貨は明治10年に改鋳発行されたものもたったの29枚しかなく、今なら1枚何百万円するか見当もつかぬそうだ。なお彼は同8年帝室技芸員になって東京へ去るが、同26年明治天皇の佩刀(はいとう)製作を命じられ、3年かけて作り上げ、素晴らしい出来栄えは絶賛されている。東京美術学校教授も兼ね、内外展覧会に出品して受賞すること数知れず、鑑定審査の重鎮でもあった。弟子に香川勝広、増田友雄、池田隆雄、中川義実ら斯界の大家が多い。明治31年1月没、享年70。東京芸術大学に米原雲海作の見事な彼の胸像が立てられている。

 夏雄の日常は無口で、あまり外出や遊興を好まなかった。妻や子どもたちを花見や芝居見物に出してやり、帰ってくるころを見計らって風呂を沸かして待ち、お帰りと迎えたという。川口陟(のぼる)の『加納夏雄伝』に、「夏雄の風采(ふうさい)は中肉中背、口調は京都弁で柔らかいが、起居すこぶる謹厳であった。身を持することすこぶる倹素(けんそ)で、往々にして誤解を受ける。毎日弁当さげてくるので嘲笑(ちょうしょう)されたが、その弁当のおかずがきまって目刺(めざし)だ。しかも食後かならず目刺の頭の骨を、丁寧に机の抽出(ひきだ)しに納めるから、嘲笑は悪罵(あくば)に変わった。ところがこの骨は、彫金室で錆(さび)付け薬の中に投じられていたのである」。

 現在、造幣局構内にある「造幣博物館」に、夏雄の「新貨幣図」「試作手彫貨幣」が飾られている。後者は一円金貨の試作品だが、夏雄の天才的な技量と職人気質が、ひしひしと伝わってくる。

 しかし貨幣製造はスムーズにはいかなかった。造幣権頭(ごんのかみ)久世治作と鋳造技師長キンドルとの衝突だ。キンドルは造幣頭井上勝が頭を下げてイギリスから迎えた技術者だが、横柄、尊大な男であった。まず日本人の異相に眉(まゆ)をひそめ、(1)丁髷(ちょんまげ)はまかりならぬ。すぐ断髪すべし(2)腰の大小不用(3)長袖(着物のこと)は危険につき着用禁止。洋服にせよ−と厳命し、違反する者は即刻解雇と言い渡す。傲慢(ごうまん)な奴(やつ)じゃ、キンドルこそ追い出せと騒ぐ職員たちをなんとか押さえた治作は、範を示そうと真っ先に髷を切った。夫の姿を見て治作の妻は夜通し泣いたという。だがそれぐらいでは収まらなかった。キンドルは驚くほどの高給をとるくせに、平気で休暇をとって物見遊山に行く。気が向かないと肝心なことも教えない。職員たちを罵(ののし)り、すぐバカ者呼ばわりをする。感情の起伏が激しくお天気屋、えこひいきの名人とくるから不平不満は爆発寸前となる。「な、口惜しかったら腕をあげよう、我々(われわれ)だけで作れるまでの辛抱だ」、技術習得までは目をつぶれとなだめになだめていた治作もついに我慢ができず、明治9年先頭に立ってキンドル罷免運動にのりだした。風俗習慣の相違もあろうが、キンドルはほかの外国人技師たちにも嫌われており、感情的対立だけではなかったようだ。

(地域史研究者)

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