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| 「行家」の刻字のある墓碑=堺市西区 |
延元2(1337)年5月22日、足利尊氏(あしかがたかうじ)が派遣した高師直(こうのもろなお)の大軍と最後の決戦場になった石津で、多勢に無勢、花の若武者と謳(うた)われた北畠顕家は、ついに討死した。まだ20歳の眉目秀麗な武将であった。石津川に架かる太陽橋を渡った南詰め(堺市西区浜寺石津町中4丁目)に、彼の墓が現存する。
井上正雄の名著『大阪府全志』に、詳しい解説があり、大要を記しておく。
「太陽橋南詰に鎮守屋敷といへるあり。高さ三尺余の角石に『南無阿弥陀仏』と題し、背面中央に『行家』、側面に『正徳三年四月十七日』と刻せり。従来除地にて延宝7(1679)年検地帳に鎮守宮屋敷、宮建の小祠(しょうし)在せしとあるも、小祠正徳年間(1711〜16)台風のために倒壊す。祠(ほこら)は再建に至らず共に倒れし塚上の老松を売却して、現在の碑建てり。(行家とあるが)塚は行家の墓にあらず、顕家の墓なるを、村民『あ』を『ゆ』に誤りて、行家の墓と伝えしものか。顕家の戦没地なれば、顕家の墓なり」
注を加える。源行家は源為義(みなもとのためよし)の第十子。平治の乱で敗れ熊野に隠れるが、鎌倉の源頼朝(よりとも)の挙兵に応じ、諸国に散った源氏を集め平家と合戦して手柄をたてる。しかし横柄な男で叔父さん風を吹かせたため頼朝に嫌われ、木曽義仲(きそのよしなか)と組んで京に入るが、義仲とも不仲になり、河内の石川で合戦し敗北。今度は源義経(よしつね)を頼るが頼朝は義経・行家を攻撃、2人は大物浦から船で西国へ落ちるも嵐に遭い、行家は和泉に漂流して頼朝派の北条時定(ほうじょうときさだ)に捕らえられ、文治2(1186)年斬首となった。顕家より150年ほど前の人物。
『吾妻鏡』(1260年ごろ成立。日本初の武家記録)には、行家が捕らわれた場所は近木郷、それより二十数年前成立の『平家物語』には、八木郷と出る。八木郷は山城国だから誤記であろうが、近木郷も和泉国ではなく現在の貝塚市近木(こぎ)・南町のあたりで、石津とはかなり離れている。ゆとあの誤記かどうかは知らないが、石津の墓が行家であるはずはない。
顕家の死後2年の延元4年、彼の実父北畠親房(ちかふさ)は有名な『神皇(じんのう)正統記』(皇室の正統は後醍醐(ごだいご)天皇の『南朝』で、足利尊氏らの『北朝』ではないとの内容)を執筆するが、そのなかで顕家は忠孝の道を歩いて、和泉の石津で死亡と記している。
以上で顕家戦没地は石津に確定できるが、本連載(1)で述べたように、長年『太平記』の記述「顕家卿和泉の境安部野にて討死」は、事実として信じられた。『吉野拾遺』(正平13[1358]年成立。南朝を中心とした説話集・伝藤原吉房著)の「源中納言(顕家)の北の方発心(ほっしん)の事」は、その代表である。大要を口語に直して紹介する。
「刑部丞(ぎょうぶのじょう)から主君顕家公が阿部野の露と消えたと知らされた北の方は失神され、あわてた周りがお顔に水などをかけてやっと気をとりもどし、玉の緒よたえし果(はて)なくくり返し同じ浮世にむすほふるらむ とお詠みになり、観心寺といふ山寺で髪をおろされた。3年ほどたって世の中は静かになったので、夫の戦死した跡を弔おうと刑部丞の案内で阿部野を訪れ、草の上に倒れ伏して号泣し、なき人のかたみの野への草枕ゆめも昔の袖の白露 とお詠みになり、自害されようとする。刑部丞は懸命になって制止し、菩提(ぼだい)を弔おうと住吉や天王寺に案内する。四天王寺の亀井の水のほとりでは、のちの世も契りのために残しけり結ぶ亀井の水茎の跡 と経木にお書きになった。その後お亡くなりになるが、北の方は中納言資朝(すけとも)卿の娘で、顕家戦死のおりはまだ17歳であった」
阿部野神社(大阪市阿倍野区北畠3丁目)は明治18(1885)年の創建。祭神は北畠親房・顕家父子。境内に顕家の銅像がある。気品ある凛々(りり)しい姿に美のはかなさを感じる。
※病気療養のため休筆します。ご愛読ありがとうございました(筆者)。
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