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光明皇后筆跡
 
なにわ人物伝 −光彩を放つ−


光明皇后(下)

朝廷を潤す莫大な黄金 天皇の遺品東大寺に献納
2008/11/01

三善 貞司

 天平年間(七二九−四九年)、自然災害と疫病の大流行で崩壊寸前だった大和朝廷の聖武天皇は、光明皇后が信頼する唐から帰国した僧玄ムの献策で、全国に国分寺、国分尼寺を置き、奈良の東大寺を総国分寺に改め、前代未聞の巨大な毘盧遮那仏(るびしゃなぶつ)を奉安し、国家安泰と鎮護の拠点にするとの政策を強行した。

 天平十(七三八)年、天皇は光明皇后との間に生まれた阿倍内親王を、皇太子に定める。長男基(もとい)親王が満一歳にもならぬうちに早世したため、長女を後継者に選んだわけだが、天皇にはほかに複数の皇紀がおり、男子もいるから内親王の立太子は異例で、天皇がどんなに皇后を大切にしたのかの証しとなろう。東宮学士(皇太子訓育役)には、これも皇后の側近吉備真備(きびのまきび)が任命された。

 天平十二年、先に死亡した皇后の異母兄藤原宇合(うまかい)の長男藤原広嗣(ひろつぐ)は、天皇が玄ムを偏愛しすぎると訴えたが大宰府追放処分を受け、怒って挙兵した。天皇は大野東人(あずまびと)を大将軍に征討軍を出し、あっけなく鎮圧する。歴史家の言う「広嗣の乱」はこの事件だ。しかし、宇合の兄藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))は玄ムと、そのバックにいる橘諸兄(もろえ)(皇后の異父兄)を朝廷から除くよう画策をめぐらす。

 天平十七年、天皇は体調を崩し、玄ムの祈祷(きとう)も効果はない。仲麻呂はご病気の回復には玄ムを筑紫(福岡県)にやって観音寺を創建すればよいとの仏の夢告がありましたと進言。天皇はさっそく玄ムを九州に派遣するが、彼は翌十八年病死した。世間では広嗣の怨霊(おんりょう)のせいだと噂(うわさ)するが、謀殺された可能性が高い。

 聖武天皇は寺院建立とともに、人心を一掃するためと称して、盛んに遷都を繰り返している。寵愛(ちょうあい)した諸兄の別荘のあった恭仁(くに)郷(京都府相楽郡)に平城京から移り、新都造営中にもかかわらずさらに紫香楽(しがらき)(滋賀県甲賀郡)に離宮を建設。かと思うとかつて孝徳天皇が築いた難波宮(なにわのみや)跡(大阪市中央区)に石川枚夫(ひらふ)を長官に起用して、唐の都をまねた新難波宮を設け、周囲の猛反対を押し切って天平十六年に遷都している。これらの浪費がいっそう財政赤字を倍加する。おまけに前記したように翌十七年天皇は倒れる。皇后は完成前の東大寺大仏殿に数千人の僧を集め大法会を催し、同十九年には薬師如来を本尊に新薬師寺(奈良市高畑福井町)を創建、天皇の平癒祈願に一身を捧(ささ)げた。

 果たして仏の加護がある。病気回復ではない。破綻(はたん)した国家財政への恵みの雨だ。陸奥の国で金鉱が発掘され、莫大(ばくだい)な黄金が朝廷を潤す。聖武天皇は大喜びで皇太子阿倍内親王に譲位、内親王は四十五代孝謙天皇となる。光明皇太后は天皇の実母として表舞台に立つ。唐の高僧鑑真を招き、大赦令や殺生禁断令を次々に出すが、聖武太上天皇は天平勝宝七(七五五)年五月に崩御された。四十九日に当たる六月二十一日、皇太后は太上天皇の愛蔵遺品のすべてを集め、東大寺に献納する。これが「正倉院御物」である。また、「東大寺献物帳」との願文を書いておられるが、「先帝の遺品を眺めると、悲嘆にくれるばかりだ。目につかぬ所に置いて、永遠に愛の形見として保存したい」との内容が記されている。こんな睦(むつ)まじい天皇夫妻はほかに例がない。天平宝字四(七六〇)年、皇太后は五十九歳で他界される。

 大阪府和泉市国分町に、光明皇后誕生地伝説が残る。当地にあった薬師堂で僧智海が修行中尿意を催し、縁先から用を足したとき、雌シカが尿をなめて身ごもり、産み落とした女の子が後の光明皇后だとの話だ。智海は憐み、女の子を同市室堂町の某農家に預ける。やがて大きくなった彼女が、田植を手伝っているところへ、藤原不比等(ふひと)の行列がさしかかる。不比等は光り輝く姿に驚嘆し、強く請うて都に連れ帰り、養女にしたという。

(地域史研究者)


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