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祭りが伝播する時

 昭和61年、確か山陰路観光キャンペーンの年だったはずです。祭りを集中して米子の魅力を高めようと、米子がいな祭と加茂川まつりが同時に開催されました。がいな祭は7月末か8月第1週の土日曜日と決まっていましたが、この年に限り、8月後半に設定されました。米子がいな万灯がデビューしたのはこの時です。当時は米子竿灯と名のっていました。
 伝統ある秋田竿灯の導入ということで、一種独特の熱気がありました。竿灯とまったく同じではいけないと、高知のよさこいで使う鳴子を応援団に持たせ、がいな太鼓とお囃子隊をBGMにするという米子らしい派手さで本家との区別化を図ったのです。ただ、肝心の技術は心もとないものでした。各チームの代表者が秋田に出向き、技術を学び、本番に備えましたが、とてもとても。不安を抱えたまま、第1回の万灯を迎えました。
 舞台となった当時の米子駅前道路は電柱の地中化が終わっておらず、電線という障害物が初心者の万灯隊を待ち受けていました。そして、沿道には露店が軒を連ね、やはり万灯隊に無言のプレッシャーを与えていたのです。何より、天候が悪く、今にも降り出しそうな空でした。
 そして本番。テレビで見る秋田の竿灯は微動だにしませんが、初心者の集合体である万灯はむちゃくちゃでした。右往左往、倒して万灯をへし折ったり、電線に引っ掛けてちょうちんを燃やしたり、露店にぶち込んでオニイサンに怒鳴られたり。わが社の万灯隊も散々でした。観客席に万灯をぶちこんだり。街灯に万灯をひっかけて電気会社の人に助けてもらったり。が、そのうちに気づきました。観客が喜んでいるのです。万灯が自分の方に倒れ掛かってくると、誰も手をたたいて笑いながらよけていました。そう、プロレスの場外乱闘と同じなのです。レスラーが自分の方になだれ込んでくると、喜んで逃げ惑う。あの感覚です。そして、この日のとどめは雨でした。演技も終了近くの午後9時半ごろでしょうか。夕立のような雨が突然降り出したのです。もう誰もが興奮状態で雨中で万灯を上げ、ちょうちんを破り、さおをへし折ったのです。もちろん、観客もびしょぬれになって大喜びでした。お囃子と太鼓も一種の興奮状態で演奏していました。祭りというよりカーニバルといった感じです。一種の狂乱状態で万灯初年を終えたのでした。
 1個2万円する万灯のちょうちんはすべて破れ、翌年買いなおしました。
 あれから20年以上たちました。米子竿灯は万灯と名を変え、ちょうちんも姿を変えました。技術も格段にアップし、多くの名人も生まれました。そして、長年にわたる秋田とのわだかまりもなくなり、日本のまつり(10月10、11日)で初めて共演します。
 全国津々浦々に数多くの祭りがありますが、格式がまったく同じものも多数あります。思うに祭りというものは昔から伝播しやすいものではなかったでしょうか。その媒体は間違いなく熱気です。楽しさです。そして感動です。日本のまつりで新しい感動の共有が生まれることを祈ります。そして、米子と秋田のようにひとつの祭りで共演しあう例が生まれるといいですね。(理)

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