「憂国忌」に想う

『絹と明察』(新潮文庫)
25日の「憂国忌」、新宿ゴールデン街にいた。作家や文化人が売れない時代や若かりしころに通った飲み屋が連なっている。その中の「M」は94歳のママが現役で客の相手をする。船乗りだった夫を亡くし、この世界に飛び込んで50年。ゴールデン街の最高齢だ。
6人も座ればいっぱいのカウンターで、ママは自身の半世紀を語った。店の稼ぎで6人の子どもを育てたこと、そのうち2人が自分より先に旅立った悲しみ、新しい恋、そしてゴールデン街の移り変わり。話に引き込まれていた営業マンが「きょうは三島が割腹自殺した日だね」とポツリ。ママは当時のことを語り出した。近くの市ケ谷で三島が自決したニュースでゴールデン街が騒然となったこと。そして「国民のためにもっと書いてほしかった」と続けた。
その話に20年前、確か新橋だったと思うが、三島が駐屯地に向かう前、同志と最後の盃を交わした割烹旅館に行ったことを思い出した。古い日本建築の建物で、室内に凛とした空気が漂っていたことを覚えている。
『金閣寺』や『仮面の告白』などの代表作で知られ、スター作家の三島がなぜあのような行動に出たのか、真相は今もはっきりしない。ただ、なぜか三島文学や生き様に引かれてしまう。
その三島が、鳥取県倉吉市出身の労働運動家をモデルに本を書いていたことをご存じだろうか。『絹と明察』。昭和39年に発表された。琵琶湖がある滋賀県を舞台に、実際にあった近江絹糸(オーミケンシ)の労働争議に題材をとった。当時は全国で労働争議や組合ストがひんぱんに起こっていた。三島が取材のため足を運んだこの労働運動家はその中心人物で、よく知っている元鳥取県議は「彼なくして、日本のインターナショナル(労働運動)はなかった」と説明する。
20年前、滋賀県彦根市のこの男性の自宅を訪ねたことがある。もちろん当時は一線を退いていたが、眼光鋭く、一種のオーラのようなものを感じた。あの三島が小説のモデルにするような男とはどんな人物だろうと思って汽車に乗ったが、納得するものがあった。男性はその後、滋賀県議として活躍。県議を辞めても民主党県連の幹事長を務めるなど、やはりリーダーとしての資質があったようだ。
男性に面白い話を聞いた。彦根は城下町で知られるが、何とかまちづくりに生かそうと、故郷で白壁土蔵群がある倉吉市に議会議員らを連れて行った。今の彦根の姿は倉吉がモデルとなった。彦根はその後、本家・倉吉をしのぐ、古い町並みを生かしたまちづくりを進める。ゆるキャラNO・1にも選ばれた「ひこにゃん」を擁し、今では観光でにぎわっている。さすが近江商人といったところだ。
話がそれたが、この『絹と明察』(新潮文庫)のあとがきに、評論家の田中美代子が興味深い解説を載せている。昭和62年に書いたものだ。
「この翌年、40代に入った三島は、ライフワーク『豊饒の海』の執筆にとりかかるとともに、実際に政治的な行動―とくに「楯の会」を通して日本の防衛問題に身を投ずることになる。(中略)この作品には、若者の行動の歓喜を通じて作者の新しい出発のはじまりが暗示されている」
『絹と明察』発表から6年後の昭和45年11月25日、三島は自決した。(鵜)
スマートフォンをめぐる携帯電話各社の競争激化を伝える10月8日付の本紙記事



