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鳥取鏝絵なまこ壁紀行
2010/01/11の紙面より
解けぬ20年来の疑問
昭和12年、鳥取師範学校の門としてお堀端から移築されたとき改変されたものと考えられるが、その後更に「なまこ」の割り付けが変えられており、原形とは異なった姿になっている。現在の文化財保護の原則からは外れた行為だ。一体、誰が?なぜ?という疑問がわく。 この保存には、鳥取で民芸運動をおこした吉田璋也が深くかかわっていた。そこで吉田好みの民芸風に造り変えたのだろうか。しかし、吉田が設計した鳥取民芸美術館や旧吉田医院・自邸は土蔵造りであるが、なまこ壁ではない。となると、なまこ壁は吉田好みではないのだろうか。 ただ昭和12年ごろ、吉田が撮影した写真集『鳥取民家譜』に、町家や土蔵のなまこ壁が多く含まれており、しかもその中に武家門の移築前後の写真があり、話は少し面倒になる。 昭和6年、この門の保存の意義を新聞に発表し、鳥取市民に訴えた民芸運動の指導者柳宗悦はどうだったのか。昭和10年に栃木県より東京駒場に長屋門を移築し、翌年、その正面に建てた「日本民芸館」で、その長屋門に合わせて大谷石を張り付けたなまこ壁を設計している。 吉田は柳のエピゴーネン(傀儡(かいらい))と揶揄(やゆ)されるほど師に追従した人で、旧吉田医院の腰壁の黒っぽい左官仕上げ「洗い出し」の目地割りは、日本民芸館のなまこ壁の割り付けを模したものだ。しかし、目地割りまで模しておきながら、あえて「なまこ」はやっていないのだからますます話は混乱する。しかも、実はとても小さな「なまこ状」の目地なのだ。 最近多くの方々と鳥取県内の鏝絵(こてえ)やなまこ壁の研究でご一緒させていただいている。しかし、私のこの疑問は20年前から抱えこんだまま当分の間解けそうにない。 木谷 清人(鳥取民芸美術館常務理事) インデックス
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