私が生まれ育ったのは東京郊外の団地だった。母いわく「東京の真ん中から電車で郊外に向かうと何もない風景が広がっていた」。そんな昭和30年代に野原が切り開かれ、250棟もの建物が建てられたのだった。
あれから60年近くたち、街の風景は変わった。当時は2~4階建てなどだった敷地内の建物の多くが高層住宅に生まれ変わった。建設当時の建物を生かしたごくわずかな棟は、若者や高齢者用、家庭菜園を楽しみたい人々向け…とそれぞれの目的を持つようになった。小さな店が並んでいた商店街は大きなモールに姿を変えた。
それでも往時をしのぶよすがとなるものがある。それは敷地内に生えている木々である。私が幼い頃にすでにそこにあったケヤキやサクラをはじめとする樹木が、数十年たって見上げるような大木となって枝を伸ばし、春から夏にはたくさんの葉で木陰を作り出す。団地の再開発計画が持ち上がった時に私が最も恐れていたのは、街から緑が消えることだった。建物も樹木もなくなれば、もはや昔をたどることはできない。だから、再開発を経ても木々が残された時にはほっとしたものだった。今はもうすっかり大人になりきってしまった私だが、そこに立つと何十年も前の私が見えてくるような気がする。
さて、最近よく耳にするのが「木を切らないで」「なぜこの木を切り倒さねばならないのか」という声である。東京では、明治神宮外苑の再開発で、周辺の樹木およそ900本が伐採される。また、大阪市内でも昨夏から街路樹の伐採が始まっており、2024年度までに公園樹を含めて約1万本を伐採する計画となっている。
私だって全ての木をそのまま残さねばならないと考えているわけではない。実際、私が現在住む大阪北部の自宅近辺では数年前の大きな台風で倒れた木々が切り倒されたのを目にする。これはやむを得ない措置だろう。今回の大阪市内の伐採についても、市の担当者は「交通の障害となっているものや安全に支障がある樹木を撤去している」と説明している。
だが、本当に十分な慎重さを持ちながら進めているのだろうか。神宮外苑の伐採の後には新たに植林するらしい。だが、1本の大木が1本の若木に植え替えられた時、全く同じ役割を果たせるようになるには長い年月がかかるのだ。そんな当たり前のことにもっと目を向けられる慎重さを求めたい。
(近畿大学総合社会学部教授)