コラム

[野分 大阪発・論点] 「森友改ざん」赤木雅子さんロングインタビュー

2020年8月13日

 森友学園への国有地巨額値引きを巡り、公文書改ざんを強要され命を絶った財務省近畿財務局の赤木俊夫さん(享年54)の妻、赤木雅子さんが、改ざん事件の真相解明を求めて国と佐川宣寿元国税庁長官を提訴した裁判は、7月15日に始まった。

相澤冬樹記者

 今から1カ月前の「戦闘突入」に、雅子さんはどんな思いで挑んだのか。雅子さんとの共著『私は真実が知りたい』を刊行した大阪日日新聞編集局長の相澤冬樹記者が、雅子さんに改めてロングインタビューした。

 「もう大体7月15日で相澤さんともお別れだよとか思ってて。これでもうサヨナラできると思ってた。とにかく7月15日までは頑張ろうと思ってたんです」

 いきなりの“爆弾発言”だ。そんなことを思っていたとは気づかなかった。

 話の主は赤木雅子さん。森友の公文書改ざんを無理強いされ、命を絶った財務省近畿財務局の職員、赤木俊夫さんの妻。「すべては佐川理財局長(当時)の指示です」と改ざんの実態を書き残した俊夫さんの「手記」を3月18日に本紙で公表し、同じ日に国と佐川氏を相手に提訴した。

 新型コロナウイルスの余波で裁判が遅れていたが、ようやく7月15日に始まった。国・財務省との闘いが火蓋(ぶた)を切った今、改めて赤木雅子さんに、この4カ月の体験と俊夫さんへの思いを聞いた。

 不安でした

 冒頭の発言は、提訴から裁判開始に至る間の心の揺れを尋ねる中で飛び出した。私と一緒に夫の上司らを訪ね歩いた時のこと。

 赤木 やっぱりね、行った時はね、もうすごい高揚してるんですよ。で、相澤さんは、そこから記事を書かれるから、たぶんそのまま突っ走るけど、私、そこでストンと落ちるんですよ。

 −ああいう大きな出来事をやった直後が危ないですね。「こんなことやったって無駄です」っていきなり言われたのを覚えてます。

 赤木 そう。やっぱり落ち込むんですよ。

 −そういう意味ではね、そもそも取材を受けるっていうことにも、ものすごく後ろ向きだった時期が長くて。うまくいかないことがいろいろあったじゃないですか。あの時もだいぶ…。

 赤木 もう、へこみました、超へこみました。だからもう取材なんか一切断ろうと思ったし、もう…。

 −実際そう言ってましたよ。「もういいです」って。

 赤木 言ってましたかね。

 この流れで冒頭の発言が出る。裁判の初日が終わってしまえば報道の熱も冷めるだろうし、私とのやりとりもなくなっていくと考えていたようだ。でも、実際は違った。

 −でもね、7月15日が見えてきて、あの頃から怒濤(どとう)の取材を受けるようになったじゃないですか。一番の大きなきっかけは、やっぱりTBS「NEWS23」の小川彩佳さんと「報道特集」の金平茂紀さんだったと思います。あれが非常にうまくいってね、放送後もすごく評判よくて。

 赤木 すごく大きかったです。で、あの取材を受ける前にNHKの取材があったので、ちょっと慣れてたんです。家で取材を受けたので。

 NHKとは、クローズアップ現代の取材。早くから赤木雅子さんに接触を図り、担当ディレクター2人が5月の時点で雅子さんと会っている。何度か面会を重ねて信頼関係を築き、自宅での撮影取材にこぎ着けた。

 −NHKの取材が終わった後、「すごい疲れた」って言ってましたね。

 赤木 4時間かかったからね。

 テレビ番組の取材はどうしても相当な時間がかかる。そのことはあらかじめ雅子さんに伝えていた。

 −追加取材もあったでしょう?

 赤木 あったんですよ、3時間。

 −だからね、相当しんどかったと思うんですけど、あの時はあまりへこんだように見えなかったんですよ。「次はもういいです」とは言わなかったですもんね。

 赤木 それはあの人たち(取材ディレクター)のおかげやと思う。うん。それでちょっと慣れてた上にあのTBSの取材があったので、すごくよかった。

 NHKとTBSの取材がうまくいったことで弾みがつき、その後はちょっとあり得ないぐらいの連続取材となった。在阪民放5社すべての取材を受け、新聞・通信社の取材も相次いだ。それは負担が重すぎないかと心配する声もあったが、結果的には裁判直前の13、14日とフルに取材を受け、15日の裁判初日に臨んだ。

 実は雅子さんは「15日の後のことは、15日のことがうまくいくかどうかで考える」と話していた。ちゃんとできるかどうか自信がなかったようだ。だから、どこかに「15日で区切りを付けたい」という気持ちがあったのだろう。それが「相澤さんともお別れ」という言葉に表れている。

 しかし実際には、法廷で自ら意見を述べ、公の場で記者会見するという、ものすごく高いハードルを越えた。これは、報道を通して多くの人の理解を得ることにつながる。この体験が雅子さんの気持ちを支えているように思う。

 −終わった後に、どうですか? 気分的には。

 赤木 取材は受けてよかったなあってすごく思うし。

 −見ててね、法廷での意見陳述すごかったですよ。

 赤木 そうですか。

 −本当に気持ちがこもってて。だから裁判官もちゃんと受けとめてくれたしね。その後の記者会見も完璧です。そういうふうにうまくいったっていう実感があるから、そのまますぐに、じゃあ17日は文化放送行って生出演しますとかね。初めてのことがトントントーンと続いたんですよ。

 赤木 そうですねえ。不安でしたもん、ずっと。

 −でも赤木さんのすごいところはね、不安だっていう割には一切練習はしなかった。

 赤木 あ、練習はしてないですね。練習するとよくない、自分で言ってました。

 −僕もそうだと思います。あれね、読み込んで練習してたらかえっておかしくなったと。慣れちゃって。だから実をいうと、法廷での意見陳述はものすごく気持ちがこもってたんです。でも、同じものを記者会見で読んだじゃないですか。あの時ね、あ、ちょっと薄れてると。二番煎じになっちゃってるんですよ。

 赤木 そう、なんかね、もうすごい(記者たちが)こっち向いてはるし、早く読み終わらな迷惑かけると思って急いで。

 −感じるんですけど、前は上司のところに行ったり、どこかの取材を受けたりした直後にすとーんと落ちることがあったんだけど、7月に入ってからそれがないような気がするんです。

 赤木 そうですね。落ちてないと思います。うん。

 −もう嫌になったっていうような空気が全然ないんですよ。むしろ、次どうしようっていう、前向きのね。それってご自身では、何でそうなったと思います?

 赤木 何なんでしょうかね。分からないですね。

 −私が考えてた都合のいい答え。15日ですよ、やっぱり。裁判だけじゃないですよ?

 赤木 何があったんですか、え?

 −本が発売された。

 赤木 あ!そうだ。本が出たからです。さすが。そうです、本が出たからです。

 −今まで気分が落ち込む時も数々ありましたけども、4カ月の間にね。そういう時、どういうふうに気分転換をしてましたか?

 赤木 友達と母に電話することです。あとお姉さん(兄の妻)と。今でも毎日してる。それが唯一の私の元気のもとかもしれない。

 −そうやって支えてくれる人がいるっていうのが。

 赤木 大きいですね。うれしいですねえ。ふふ。

 応援が後押し

 提訴が“宣戦布告”とすれば裁判開始は“戦闘突入”。気分が高揚する時だ。でも人間ずうっと気分が高まったまんまとはいかない。

 −あの時はちょっと落ち込んだなとか、自信なくしたなっていう時はありましたか。

 赤木 それはもうたくさんあって。1日の中でもあるし…やっぱり夜になったら、雨が降ったりすると特に気分が落ち込みます。「こんなことしなきゃよかったかな」って思う時はいまだにあるし。

 「雨が降ったら」というのは理由がある。俊夫さんが亡くなって実家のある岡山県に親族の車で向かう時、豪雨が降っていた。雨が降るたび、あの時の気分を思い出すのだという。「夜」についてはこんな話もしてくれた。

 赤木 夫の調子が悪くなってから、夜眠れなくなったんです。眠れない時はソファに座って、とにかくずっと、う〜ん、考えるのは、夫のこと思い出すことが多い。ベランダに向かって置いてるんですよ。

 −それはもしかしたら、ソファからベランダを見ているというのは、その時に右手の方を見たくなかったということなんですか。

 ここで私が「右手の方」と言っているのは、俊夫さんが亡くなっていた居間の窓際のことを指している。

 赤木 そうです。だから変えました。(ソファの)位置をね。

 −やっぱり俊夫さんが亡くなっていた場所、あそこを…。

 赤木 避けてる。うん、つらいですよ。

 −初めてお部屋に訪れた時にびっくりしたんですよ。「ここで亡くなったんです」って言われて。居間だから。やっぱり嫌だったんだ。

 赤木 うん、嫌ですね。

 −今でも嫌ですか。

 赤木 嫌ですね。

 −そこを指さしてくださいって言って写真を撮る人間のことはどう思いました?

 この数日前、私は雅子さんにお願いして、その場所を指さしてもらって写真を撮っている。

 赤木 いや、でもね、最初、警察の人がね。夫が亡くなったその日の夜に来てね、首はどっちに傾いていたとか全部やるんですよ。で、それを指さして写真撮られたんです。一番に。なので相澤さんに言われても、もう平気。ははは。

 会話の合間によく笑う雅子さん。本当は平気なはずはないが、逆にこちらを気遣っている。

 −夜、眠れないという状況はいつごろから変わりましたか?

 赤木 変わったのは確実に提訴するって決まって、今の先生(弁護士)に変わってからです。眠れるようになったんですよね。完全に。

 そして迎えた3月18日の「手記」公表と提訴。周りの人たちの励ましに支えられたという。

 −近しい人たちにもギリギリまで伏せていたと思いますけど、提訴したことについてどのように言われましたか。

 赤木 もうみんなすごく応援してくれて、とにかく体に気をつけて頑張りよってホントあったかいです、皆さん。親戚も友達も。

 −誰かが言ってくれたことで覚えてることありますか。

 赤木 兄はもともと(裁判に)反対してたんですよ。なのにお兄ちゃんがね、「おまえがやるんやったら、困ったらいつでも(実家に)帰ってこいよ」って、「嫌なことがあったらわしが守ってやるからな」って言ってくれて。あんなに反対してたけど、今は賛成というか、いつも私の味方してくれてる気がする。

 赤木さん夫妻がそろって通っていた近所の接骨院の人は、裁判開始当日、「頑張れ雅子ちゃん! 負けるな雅子ちゃん! 一同最後の最後まで雅子ちゃんの友達です」という応援メッセージを、ガッツポーズの写真とともに無料通信アプリ・LINEで届けてくれた。

 赤木 あの接骨院の方は、知り合いが同じように国に裁判を起こして、すごい大変だったそうです。「(裁判は)絶対したらあかんよ」ってずっと言われてたんですよ。だから裁判することになって、行けなくなったんですけど。反対してはったけど、結局私を応援してくれてるんやなって。

 −提訴の日から記事がスタートしてるんですけど、当初は本名を出すのはためらうってことで仮名にしました。ただ仮名も「昌子」さんにしましたよね。同じ音で。あれはどういうふうにお感じになりました?

 赤木 本当言うと、あの「まさこ」っていう同じ響きやから嫌だったんですけど、もうお任せ。

 −あれは、俊夫さんが書き残したものに「まさ」とか「まあちん」とか、本名が「まさこ」であることを前提とした呼び方があったんで、それを使おうと思ったら「まさこ」じゃないとどうしても理屈が合わなくなるんで。

 赤木 ああ、そうだ。それ、お姉さん(兄の妻)に言ったら、「じゃあマサエにしたらよかったのに」と言われた。

 −それでね、歌手の森昌子さんの昌子がずっと定着して、しばらくあれで1カ月以上続いたと思いますけど、4月末から本名にしたんですよ。あの時、本名にするっていう時の気持ちってどんな感じでしたか。

 赤木 いや、あんまり違和感がないというか、響きも一緒やし。私は自分の名前が好きなので、親がつけてくれた名前なので、自分の名前のほうがいいなと思いました。

 −3月の末から再調査の署名活動を始めて、ものすごい勢いで賛同者が集まったでしょう? それから応援のメッセージ、手紙やメールがいっぱい来ています。ああいうのも影響したんじゃないですか。

 赤木 それもあります。(裁判が)怖かったんですけど、あんなに応援してもらえると思ってもいなかったので、応援してもらえて、それはすごい後押しになったと思います。もう、本名名乗ったほうがいいと思いました。

 −あれはね、たぶん世間のみんながびっくりしたと思うんですよ。仮名の人が、本名にそう簡単に切り替えないので。本名に切り替わったことで何か反響ってありましたか?

 赤木 職場の人が、「赤木さん、本名出したん?」ってすごいびっくりされたんですけど。あと友達がメールで「本名出したんやね、偉いねえ」って褒められることが多くて。立派やねえって言われることが。

 赤木雅子さんの一番の支えになっているのは、岡山の実家で暮らす母親と兄の一家だ。赤木さん夫妻には子どもがいないが、子どもが好きで、兄夫婦の男の子3人、まだ子どもだった甥(おい)っ子たちをかわいがっていた。甥っ子たちは、俊夫さんが亡くなった後、雅子さんのことを気遣っていたという。

 赤木 (俊夫さんが亡くなって)私が実家に帰ってる2カ月の間に、やっぱり荒れてたと思うんですよ。で、元気がなかったら、一番下の小学5年生だった子が「まあちゃん、こういう時はな、お笑い番組見たらいいんやで」って言って、番組を録画してくれて。で、その子は自分の見たい番組とかいっぱいあるじゃないですか。なのにね、部屋に連れていってくれて、それで一緒にお笑い、「千鳥が好きやろう」って言って、それをわざわざ録画してくれてて、一緒に見てくれたんですよ。

 お笑いコンビ、千鳥は、雅子さんの高校の後輩に当たる。そんな縁で好きなのだが、この話には続きがある。

 赤木 そしたらね、真ん中の子がね、急になんか様子がおかしくなったんですよ。で、下の子に「もうちょっとその番組消せ」って大騒ぎになって。「ええじゃん、どしたん」とか言いながら見てたら、お笑いのそのネタに事故物件(室内で自殺者などが出た物件)の話があったんですよ。ほんならね、真ん中の子はすごい気つかう子やから、その事故物件のネタが出るの分かってたから、「もう消せ、消せ」って大騒ぎしてくれて。うん、優しいなあと思った。ははは。

 俊夫さんの葬儀では、甥っ子君たちも含め、実家のみんなが色紙に寄せ書きをして、ひつぎに入れたという。

 −ご実家の家族全員ね、一度文春の記事に登場してもらってるんですけども、甥っ子君たちも3人、それぞれ思いを語ってもらいました。

 赤木 あの書道のところの写真(甥っ子君の一人が俊夫さんに書道を習っている)を見て、「これは僕や」「これは僕や」って大騒ぎになって、親もどっちか分からんていう。ふふふふ。いまだに判明してないから。あと「僕のほうが大きい」とかね、写真の扱いが。

 思い出すと…

 赤木雅子さんの一日の始まりは早い。俊夫さんの具合が悪くなって寝つきが悪くなった時、雅子さんも朝早く寝覚めてしまうようになった。今もそれは変わらない。

 赤木 結局、私、一人暮らしなので、やることが減ったんですよ。家事にしても、食事作るのも、もう嫌になってるので。なので、やっぱり夜も早く眠るし、朝早いっていう習慣になってしまって、もう4時ぐらいから起きて…

 −そうですね。いつも早いと朝5時台、6時台からLINEのやりとりが始まりますから、朝早いんだなっていうのは分かってたんですけど。じゃあ朝、起きてまず何をするんですか。

 赤木 朝起きたら、私が寝てる部屋に夫の遺影があるので、そこに「おはよう」って言って、お茶を夫にあげたり花の水を替えたりしてスタートします。「起きたよ」って。

 −次に何をするか決まってるんですか?

 赤木 夫が亡くなった後は、なるべく1日1回は家から出て駅まで行くっていうのを目標にしてたので、朝ちょっとご飯食べたりコーヒー飲んだりした後は、買い物に行くか、仕事に行くか、習い事に行くか、とにかく家から1回は出るようにしてます。

 −その、朝起きて、ご飯食べてっていう話。朝ご飯に、ご飯とパン、どちらを食べる方ですか。

 赤木 楽なので、やっぱりパンですね、今は。夫がいるころは、もう毎日お弁当作ってたので、ご飯炊くことが多かったです。

 −じゃあ俊夫さんは、その手作りお弁当を毎日持って近畿財務局に通ってたんですか。

 赤木 そうです。二十何年間。

 近畿財務局はNHK大阪放送局のすぐそば、大阪市中央区の谷町4丁目界隈(かいわい)にある。私も長年そこに通っていたから、あの辺りの飲食店はよく知っている。

 −あそこの合同庁舎(近畿財務局が入っている)にも食堂ありますし、周りにもいっぱい食べるところあります。そういうところにはあまり行かなかったってことですか。

 赤木 ほぼ行ってないと思います。私の作ったもので、毎日おいしいって言ってくれるので。

 だから朝ご飯も一緒に和食のご飯を食べていた。それが、俊夫さんが亡くなった後は、自分一人のために作る気になれない。それでパン食になった。

 赤木 でも神戸はパンがおいしいところなので、パンも大好きで。だから休日はよくパン屋さん巡りしたり。

 −俊夫さんの、朝ご飯で好きな定番のおかずってありましたか。

 赤木 目玉焼きとか、もうほんと、シンプルなものですけど。ご飯とそんなものでも喜んでくれました。おみそ汁にしても、お豆腐と、揚げと、普通のおみそ汁ですごい喜んでくれました。

 −前に記事に書きましたけど、「まあちん(雅子さん)の作るものはなんでもおいしい」と言って食べてくれたってね。

 赤木 そう。恥ずかしげもなくそう言ってくれます。恥ずかしいぐらい言うんですよ。

 そんなささやかな幸せの日々が一転する。

 −俊夫さんが亡くなった時は、仕事先からメール送っても返事がないから心配で帰ってきたという話でしたけど、お仕事っていうのは?

 赤木 大学の中にある生協で働いてたんです。10年ぐらい前からしてて。今も籍は置いてくださってるんですけど、亡くなってからは、もうほとんど行ってないです。

 −行かなくなったのはどうしてなんでしょう。

 赤木 1回復帰したんですけど、1週間ぐらいで体調悪くなって、結局行けなくなったんですね。なんかね、やっぱり思い出すんですよね。夫はしょっちゅうそこに迎えに来てくれたし。何よりそこから帰ったら亡くなっていたので、やっぱり思い出すことが多くて、ちょっと気が重い。今は別のところでアルバイトをしてます。

 趣味は赤木俊夫

 赤木俊夫さんは、多彩な趣味を持つ人だった。建築では安藤忠雄さんが大好きで、全国各地の安藤さん設計の建築物を夫婦で訪ねて回った。音楽では坂本龍一さんが大好きで、その格好をまねしていた。髪形や、眼鏡など。

 −昔からそんな感じだったんですか?

 赤木 ずっとそうです。教授、教授って言って。音楽も好きやけど、あの雰囲気も好きだったんじゃないですかね。だからあの髪形にしてって言われて…私、夫の散髪してたんですよ。だから「あの髪形にして」って言うけど「土台が違うんじゃ」ってよく言ってました。私がカットしてたんですよ。何という、はははは、仲のいい。

 趣味の中でも書道はプロはだしの腕前だった。書道で使う質の高い筆をまとめて購入するため、中国まで買い付けに行っていた。その旅に同行した雅子さんは「ぼくのために中国語を習って」と言われたという。

 赤木 はい、そうです。うん、習ってました。10年ぐらい。とびとびですけどね。引っ越しするたんびに初級編をずっとしてたんで。

 −そのぐらい好きだったってことですね。

 赤木 そうですね。

 俊夫さんはおしゃれにもこだわりがあり、質のいいものを追い求める人だった。

 赤木 もう、お金はすごいかかる人でしたよ、あの人。はあ(ため息)。

 −前、ちょっと言ってましたよね。家の買い物のほとんどは俊夫さんのものって。

 赤木 そう。「俊夫ちゃん係数」が高いんですよ。趣味のものだけじゃなくてね。スーツだとか、靴とか。

 インコテックスのパンツを2本買って、いいことのある日におろすことにしていたけど、買ったその日に改ざんをさせられて、その後は着る機会が来なかったという話を聞いた。

 −基本的にすごくおしゃれな人で、そういうものをちゃんと着こなせる人だったんだと思うんですけど。

 赤木 そう。母親がスーツ作ってたんでね。仕立屋さんやったみたいなので。

 −雅子さんはどうだったんですか? 俊夫さんが言ってたっていうじゃないですか。「いい物を買え」と。

 赤木 そう。で、「いや、あんただけで、うちはもう家がつぶれるんやから無理やで」って言うても、「雅子ちゃん、これを買い」っていつも言ってくれたんですよねえ。

 −たしか「一番いいものを買え」って言ってたとか。

 赤木 そうそう、そうです。ぜいたくですよね、公務員のくせして。

 −で、買いました?

 赤木 それは買ったこともありますよ。バッグ買ってくれた。フェリージのバッグを銀座で買ってくれました。

 −銀座でっていうところがまた。安いところでは買わない。

 赤木 うん、そう。これはね(腕のオメガの時計を見せながら)結婚した時の結納返しのペアウオッチ。

 −てことは25年前じゃないですか。25年使ってるんですか。

 赤木 うん。だからこれ、なくせない、絶対。

 −じゃあ俊夫さんもオメガの時計してた?

 赤木 そうです。

 −家での家事は、俊夫さん、してました?

 赤木 一切できなくて、あの人。もう掃除も洗濯も料理も、何にもしない。ただ靴磨きだけはようしてた。あれは、磨くのに下着の古いのがいいんですよね。で、自分の使い終わった下着を、今週末には絶対靴磨きをするぞってリビングに置いとくんですよ。でもなかなか土日忙しくてそれが何週も、ずっと下着がリビングに置いてあるんですよ。それが嫌で「片づけて」って言っても片づけてくれないから、それを(仕事用の)バッグに入れて、お弁当の下に入れてね、職場に持っていかせたっていうことが1回あったんですけどね。まあそういうこともやってましたね。仲いいでしょう? 本当に仲よかったんですよ。

 −それで、メールが来たんでしょう?

 赤木 うん。「もう!」とかいって怒ってメールが来ました。ふふふ。

 −ということは、家事は全部雅子さんがやってたっていうことですか?

 赤木 そうですよ。

 −そうすると、俊夫さんは基本的に趣味三昧だったということでね、家では。

 赤木 そうです。ホント趣味三昧。幸せやったと思います。だからその点では全然後悔がない。好きなこと、させてあげたから。夫に好きなことをさせてあげるために、夫が仕事を辞めたら私が働いてかせごうと思ってました。私は趣味「赤木俊夫」ですからね。

 −趣味「赤木俊夫」の意味はね、雅子さんにとっては何をするのが趣味ということになるんですか。

 赤木 あの人が喜んでるのを見るのが。何か喜ばせてあげるために。好きになるってそういうことだと思いますね。あの人が喜んでたらうれしいみたいな。

   ◇   ◇   ◇

 それほど大好きだった自分の「趣味」が、不正な改ざんをやらされたあげく、組織からも同僚からも見捨てられて、孤独と絶望の中で死んでいった。だから雅子さんは思う。「夫は財務省に殺された」と。そして誓う。「私は真実が知りたい」。これは夫の仇(あだ)討ち。真相を明らかにする雅子さんの闘いはこれからだ。


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