大阪ニュース

ありがとうの言葉で頑張れた 災害派遣の元自衛官

2020年1月17日

 17日で阪神大震災から25年を迎える。6千人以上の命が失われ、都市機能は壊滅、都市直下型地震として甚大な被害をもたらした。「阪神淡路の教訓を伝えることが自分の義務」。当時、陸上自衛隊第3師団飛行隊長として、災害派遣活動の最前線に立った早川喜代司さん(65)=兵庫県宝塚市=は、あの日上空から見た惨状を胸に、全国で防災教育や講演活動を続ける。

「震災の教訓を伝えるのが自分の義務」と、全国各地で防災教育、講演活動を続ける早川さん=大阪市内
ヘリコプターから撮影した地震発生直後の神戸の街(早川さん提供)

 1995年1月17日午前5時46分、地震発生。八尾駐屯地(八尾市)の官舎にいた早川さんは、同6時すぎには部隊に到着し、出動に備えた。当時の自衛隊法では、災害派遣は都道府県知事などの要請を受けて行う。しかし、非常事態であることが隊全体の認識だった。

 「訓練として離陸します」。同7時半、八尾からヘリコプター一番機として飛び立った。兵庫県から災害派遣要請があったのは、その2時間半後だった。

■「本当に日本か」

 離陸して3分後、大阪湾上へ。すぐに対岸から立ち上る煙の柱が目に入った。「阪神地区が相当なダメージを受けている」。体中に緊張が走った。上空に到達すると、阪神高速道路は倒壊し、転落を免れた大型バスの横で助けを求める人が見えた。亡くなったとみられる人の隣では人々が座り込み、全ての屋根がひしゃげていた。「これが、本当に日本なのか」。同じ高度で多数の民間機も飛ぶ中、煙の間を縫うように飛行した。

 地上では、道路や鉄道の交通網が寸断され、道路は大渋滞。王子公園(神戸市)をヘリの中核基地とし、八尾から救援物資を運び入れた。陸自ヘリによる空輸量は、同月31日までの2週間で約千トンに及んだ。

 昼夜問わず飛び、飛行場は24時間稼働。激務に隊員は心身ともに疲弊した。それでも「今頑張らなければ、いつ頑張るんだ」と鼓舞し続けた。早川さんが自宅に戻ったのは、発災から2週間後。「隊員が頑張れたのも市民の理解があったから。市民の『ありがとう』の言葉が隊員を強くした」と振り返る。

■必ず起こる

 早川さんは、2010年に退官。同年に京都府危機管理参事に就き、11年の東日本大震災では福島県で活動した。現在は、京都府の危機管理アドバイザーの傍ら、全国の行政職員への防災教育や大阪府の自主防災組織リーダー育成、講演に精力的に取り組む。

 あの日から四半世紀。多くの犠牲と教訓を得て、防災関係機関の体制や装備は大きく改善された。しかし、毎年のように起こる大規模災害は「想定外」「まさか」を繰り返す。

 「阪神淡路で得た知識や経験を、今の人たちに伝えるのが自分の義務。災害は必ず起こるという意識で、減災に取り組まないといけない」。早川さんのまなざしは足元に、そして未来へと向く。


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