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光秀の禁制を初公開 本能寺の変直後に発行

2020年10月17日

 戦国武将の明智光秀が、現在の豊中市若竹町にあたる石蓮寺(せきれんじ)村に対して発行した書状の禁制(きんぜい)が16日、同市立文化芸術センターで初めて一般公開された。主君である織田信長を討った本能寺の変から、わずか5日後の1582(天正10)年6月7日の発行。光秀はその6日後に山崎の合戦で羽柴秀吉軍に敗れ、居城の坂本城に向かう途中に追い詰められ自害した。刻一刻と変化する動乱の戦国時代を、うかがわせることのできる貴重な資料だ。

本能寺の変から5日後に発行された明智光秀の禁制。日付の下に日向守の花押が記されている
明智光秀が本能寺の変から5日後に発行した実物の禁制を見る来場者=16日、豊中市

 禁制は、おきてや禁令を周知する書状。戦国時代は兵の盗みや暴行が横行し、村や寺や神社は有力な武将に禁制を出してもらっていた。

 展示している禁制は、石蓮寺村の役人だった渡邊(わたなべ)家に伝わる。軍勢が村人に乱暴したり、お金や米を奪うことを固く禁止させており、違反者は速やかに厳罰に処すと記している。同じく所蔵の徳川家康や豊臣秀頼らの禁制も公開された。

 同市教育委員会社会教育課の橘田正徳さんは「禁制自体は珍しくないが、家康や秀頼らトップの禁制が同じ村にあるのは珍しさがある」と説明する。

 小高い丘の上に位置する石蓮寺村は、戦略的な面と近隣の垂水西牧榎坂郷の目代(もくだい)(代官)で明智家など有力武将と婚姻関係があった今西家の存在から、本能寺の変や関ケ原の合戦、大坂冬の陣と合戦の節目に禁制が出されていたという。

 渡邊家当主の晴久さん(64)は「戦国のややこしい時代に、知恵を使って自分たちの村を存続させようとしていた人たちの姿に、思いをはせながら見てほしい」と話した。18日まで、観覧無料。


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