金井啓子の伴走で伴奏

家族葬の広がりに戸惑いも

2022年6月6日

関わった人々との別れに思う

 今年初め、長年お世話になった人が亡くなった。弟も母も亡き父も家族ぐるみで国内だけでなく海外にまで及ぶさまざまな思い出を作ってくれた人だった。

 訃報を聞いてまず思ったのは、「お別れができるのだろうか」ということだった。コロナ禍に巻き込まれて2年超。大勢の集まりを避けねばならず、ごく内々で少人数の葬儀を行うことが多くなった。

 それに加えて、できるだけ仰々しい葬儀を避けようとする風潮が近年広まっている。特に仕事がらみの義理のために出席する葬儀ほど参列者と遺族の双方にとって味気ないものはない。だから家族葬で済ませる。そういう動きが急速に広がっているように感じる。

 死は誰にでも訪れるものであるし、その死をどう弔うかは本人や家族の希望が最大限尊重されるべきだということは、十分に理解しているつもりだ。だが、その一方で、長い間の関わりを終えるにあたっての区切りの儀式とも呼べる葬儀に、家族以外は参加させてもらえない場合が多くなったことに、私は個人的に戸惑いとさびしさを感じているのも正直なところである。

 別の恩人が昨年長患いを経て死去した際には、生前にさまざまな公な立場で重責を担った人だったにもかかわらず公式に訃報が発表されることはなく、葬儀もごく内々で営まれた。私はその人の「不在」をなかなか受け入れられず、悲しみやさびしさをどうまぎらしたらいいのか戸惑ったままだった。最近その人の夢をみたことをきっかけに、共通の知り合いだった人たちと会食をした。亡くなった恩人の話をして、ようやく私の心の中のつかえがおりたような気がした。

 わがままなのはわかっている。でも、人と関わりあって生きた末に別れが訪れた時には、一通りの「お別れ」が私には必要なのだと痛感した。

 さて、冒頭で述べた知人とのお別れであるが、かなり盛大に告別式が行われた。人数を正確に数えたわけではないが、参列者は100人を超えた。もしかするともっとずっと多かったかもしれない。遺族にお悔やみの言葉を伝え、祈りをささげ、通常よりかなり音量を絞りつつ歌もうたった。悲しみや寂しさが消えたわけではないが、胸のつかえはない。

 私もいつかは死ぬ。いつになるのかはわからない。だが、私との別れをきちんと済ませたいと思ってくれる友人知人のために、適切な形をとれればありがたい。

 (近畿大学総合社会学部教授)



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