金井啓子の伴走で伴奏

いつか来る別離に何ができるか

2022年6月14日

盛者必衰は自然の定め

 先週に続いて死について書く。生と死について考える機会が最近多くなったためである。紙面が暗くなってしまうことはお許しいただきたい。また、こうしたことに連続的に言及していると、私自身が現時点で自死を考えているのではないかと心配する人々も出てくるかもしれないが、そういったことではない。

 さて、私が小学生だった頃のことだと思う。寝る前に両親がかけてくれる音楽を聴いていたら、なんとはなしに物悲しい気分になったことをきっかけに、「パパやママはいつか死んじゃう」ことが幼い私の心にぽっかりと浮かんだ。泣きながら「先に死なないでね」と訴える私に、母は慰めてくれたが、いま思えばかなり困惑していたのではないだろうか。

 それ以来「大切な人が私よりも先に死んでしまうかもしれない」という恐怖は、心の奥底にいつもひっそりと巣食うことになった。

 あれから時がたち、11年前にはあれほど恐れていた父の死が現実のものとなった。悲しみも喪失感も大きかったが、私はその後も生きている。父のことはよく思い出すが、絶えず悲しいわけではなく、むしろ楽しかった父との思い出を冗談すら交えながら家族や知人友人と話せるようにもなった。

 80代の母は認知症が進んではいるものの、身体の健康面では問題ない。だが、それでも母と私の間に残された時間はもうそれほど長くはないだろう。いや、3歳年下の弟だって、少しだけ年上である私のパートナーだって、そんなに高齢にならないうちに私の前から消えてしまうことは十分にありうる。そう考えると怖くて仕方ない。

 数年前に長患いをしていたパートナーを亡くした友人に、新しいパートナーとの出会いを求めることはしないのかと尋ねたことがある。すると「あの別れをもう繰り返したくないから、パートナーは探さない」と返ってきた。あの時ほど自分の浅はかさを呪って自分の頭をなぐりたいと思ったことはない。

 いつか来るであろう、大切な人たちとの別れの前に私は無力だと思わざるを得ない。その日も、そしてその後も生き続けていくために、どんな備えができるのか考えてもよくわからない。とりあえず今は大切に思える人を増やしておこうとしている。それだけ別れのつらさが増すのだけれど、それでも人のぬくもりに頼らずにはいられない。

 (近畿大学総合社会学部教授)



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