貴重な情報を教えてくれた人が誰なのか明かさず守るのは、ジャーナリストにとっては「イロハのイ」と言ってよい基本である。これは、例えば報じた内容が政府や企業の不正といった国民生活への影響が大きいものほど、万一提供者の身元がバレるとその人に権力の弾圧が加えられかねないことを配慮したルールだ。
だが、一般の人々にはそのルールはあまり知られていない。先日も、友人のジャーナリストが重要な事項を記した文書を入手して公開すると、「誰からもらったのか明らかにしろ」というネット上の声がたくさん聞こえてきたという。「情報の正確さを確かめるためにも情報源を示すのは当たり前だ」とも言われたそうだ。
ジャーナリズムでは他にも、情報提供者にお金などの対価を提供するか否かをめぐるルールもある。日本ではお金を払う報道機関が比較的多いが、私が所属していた社を含め欧米では提供しない規則を設けているメディアが多い。前者の場合、情報提供者が情報の取得や提供に費やした手間に対して対価を払うべきと考えているようだ。一方後者は、もしお金を払えば、報道機関が望むような内容に提供者が情報を変化させてしまう可能性があるため、対価は提供しないという考えが土台にある。
だが、特に対価が支払われなかった場合に「情報をタダでもらおうとするとは厚かましい」といったコメントを見かける。
また、記事を公開する前に原稿を見せてほしいと取材相手に頼まれても応じることを禁じている報道機関は多い。これは、取材相手にとってあまり書かれたくない内容である場合、事前に見せることによってそれが「検閲」となって何らかの圧力が報道機関にかけられて公表の妨げとなることを防ぐというのが大きな目的である。オウム真理教信者による坂本弁護士一家殺害事件は、この原則を破ったことが発生の原因のひとつとされている。
だが、このルールもまたジャーナリズムの世界の外にいる人々には知られておらず、昨今のメディア不信とあいまって批判が強い。捏造(ねつぞう)、誤報を生む温床だという批判である。
メディアによって伝えられる情報に日々接している人々が、ジャーナリズムが従っている原則を知らずにいる例は多い。知らないことが不信を増幅しているようにも見える。だが、ジャーナリストではない人たちがそういう原則を知る機会はいつどこにあったのかと考えると、ジャーナリズムについて教えている私のような人間の責任の重さを感じる。ただ、私の授業は大学でメディアを専攻しようと選択した人だけが取るものである。小中高など早い段階でメディアリテラシーについて学ぶのであれば、ジャーナリズムの授業を作る必要があるのではないだろうか。
それと同時に、メディア不信の時代だからこそメディア側にも自己開示する努力が求められるだろう。
(近畿大学総合社会学部教授)
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