金井啓子の現代進行形

社会生活に必要なものとは

2021年4月29日

衣食住を満たせば十分か

 私にとって「社会生活」とは何なのかと、最近考えている。3度目の緊急事態宣言が発令され、「社会生活の維持に必要なもの」を除くさまざまな施設が閉鎖されイベントが中止されている。

 人間というのは、何をもって「社会生活を送れている」と定義するのだろうか。食事ができて、暑さ寒さをしのげる衣服を来て、身体を清潔に保ち、電気ガス水道といったインフラが整った住居に住む。今回の緊急事態宣言で示された制限を見ると、私たちの社会生活はこれぐらい基本的なものしか認められていないのではないかと思える。

 私は、来月初めに東京での発表会で演奏するために、シューマンのピアノ曲を練習し、友人たちが聴きに来てくれるはずだった。だが、会場のホールが緊急事態宣言中は閉鎖することを決めたため延期となった。

 数日前、日記を書くために毎日使うボールペンのレフィルが足りなくなり、文房具も置いている近所の書店に行くと営業時間が短縮されており危うく買いそびれるところだったが、なんとか間に合った。休業している書店が多いと聞いていたため、店員に「この店は開いているんですね」と尋ねると、「今のところは、です」と言われた。さらなる「圧力」がかかれば休業もありうるのだろう。

 メロディーが美しくて気に入った曲を選んで自分で演奏できるように練習し、ピアノの音色が好きな人たちに聴いて楽しんでもらうことや、毎日の出来事をノートに書き留めておくことは、それをしなければ死ぬというほど絶対不可欠ではない。だから、「社会生活の維持に必要ない」と言われてしまうと、強くは反論できない。だが私は、自分がただ呼吸をしてさえいれば「生きている」と言える人間だとも思えないのだ。美しい音に心をふるわせ、心に浮かんだ言葉を紙に書きつけて一日を終えることによって、より人間らしく豊かな「社会生活」を送れるのだ。私以外の人たちにだってそれぞれ、「一見無駄に思えるけれど必要な何か」があるはずだ。

 新型コロナウイルス感染症が感染するリスクの高い行動として、飲み食いをしながら大きな声で至近距離で話す行為が挙げられている。クラシックコンサートでは飲み食いはしないし、大声で話す人はほとんどいない。本屋だって、静寂が保たれていることが多い。今般の制限はどうにもピントが外れているとしか思えない。

 コロナ禍の深刻さは私だって理解している。だが、五輪の中止や、飲食店に対する手厚い休業補償といった、肝要だと思える対策を十分に取らず、一方であまり効果的とも思えない「防止策」を次々と繰り出すことに、いら立ちを覚えずにはいられない。

 「社会生活」の豊かさを過剰にそぎ落とすと、コロナ後の時代を迎えた時に、その豊かさを簡単には取り戻せなくなるかもしれない。それをいま危惧している。

 (近畿大学総合社会学部教授)



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