吉武英行 五感の旅

伊賀上野城

2021年12月6日
「白鳳城」とも呼ばれ親しまれている伊賀上野城

 約10年ぶりだろうか、伊賀上野を訪ねてみた。寺町など、風情豊かなこの街が好きだ。藤堂高虎の面影が感じられるこの街は、縁もゆかりもないはずなのに、とても懐かしい思いに至るのはなぜだろう。

 この城も現代風に言えば「高虎ブランド」である。1608(慶長13)年、徳川家康は伊予の国(愛媛県)宇和島城主であった藤堂高虎に、伊賀の国10万石、伊勢の内10万石、伊予の内2万石、合わせて22万石を与え国替えさせた。高虎が家康の信任厚く、築城の名手でもあり、大阪・豊臣との決戦に備えるための築城であった。当初の筒井定次の城が大阪を守る形をとっていたのに対し、高虎は、大阪に対峙(たいじ)するための城として築いた。本丸を西に拡張し、高さ約30メートルの高石垣をめぐらして南を大手とした。

 五層あった天守閣は、建設中に当地を襲った大暴風で倒壊したが、外郭には10棟の櫓(やぐら)と長さ21間(約40メートル)という巨大な渡櫓(多聞)をのせた東西の両大手門や御殿などが建設された。大坂冬の陣、その翌年の夏の陣で豊臣方が敗れた。その後、幕府は城普請を禁じたため、伊賀上野城では天守閣が再建されないまま伊賀国の城として認められ、幕末まで国替えなくこの地を収めた。

 藤堂高虎を少しだけ紹介しておこう。生まれは近江国、浅井長政に仕え、織田信澄、羽柴秀長に仕え、小牧・長久手の戦いなどで戦功をあげ紀伊粉河で2万石の大名となり、豊臣秀吉が宇和島7万石の領主としたが、秀吉の没後、家康に重用され、今治20万石の領主となる。その後、伊賀、伊勢の安濃津に移封となり伊予の2万石と併せて22万石の領主となる。その後、32万3954石にまで加増されたという。

 現在の天守閣は復興天守閣である。優雅な姿から「白鳳城」とも呼ばれ、伊賀のランドマークタワーとして親しまれている。関西圏からの近旅として推奨したい場所だ。

(ホテル・旅館プロデューサー)


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