澪標 ―みおつくし―

知られざる1964年 東京“パラリンピック”

姫路まさのり
放送作家
ライター
2019年9月2日

 開催まで1年を切った2020年東京五輪。“チケット騒動”が巻き起こる等、世間ではもっぱらオリンピックの話題が取り沙汰されている。しかし、障害者スポーツの祭典であるパラリンピックが、同一都市で2度開催されるのは、東京が史上初であり、その意義は段違いで大きい。

 1964年に開かれた東京五輪と比べ、64年東京パラリンピックについての認知度は顕著に低いと感じる。参加378人による9競技・5日間の熱戦が繰り広げられ、開催国となった日本は、53人が選手として参加し金メダルは卓球の1個のみ。メダル総獲得数は参加21カか国中13位と、惨敗とも捉えかねられない内容だった。

 そして、競技以上に諸外国との差を感じたのは、「選手の境遇」だった。参加した外国人選手は、弁護士、会計士、セールスマン、記者、時計屋、本屋など各分野にわたる仕事を持っていた。給料も健常者と全く差がない。

 対して日本の選手は53人のうち仕事を持っていたのはわずか5人で、自営業ばかり。自宅か療養所で誰かに面倒をみてもらっており、“選手”とは名ばかりで、病院や施設からきた人たちであった。

 当時から、外国の選手はスポーツ用の車いすを巧みに操っていたのに対し、日本人選手は病室や施設の番号が書かれた車いすで出場。皆一様に表情は暗く、車いすを重そうにこぐ姿からは希望など感じられないもの当然だろう。

 それでも選手本人は与えられた環境で懸命に競技と向き合った。中には、一個人として社会から認められている外国人選手を見て、「自分たちが主役になってもいいんだ」と奮い立ち、参加意義を存分に感じた選手もいた。

 その奮闘は、多くの国民に向けて“躍動する障害者を初めて目にする機会”を生み出す事にもつながっていった。日本の戦後復興を世界にアピールした64年の東京五輪に対し、東京パラリンピックは、日本の障害者がいわれなき境遇に置かれている事を“知らしめた”大会でもあったのだ。

 箱根療養所から出場し、水泳とフェンシングで銀メダルを獲得。開会式で選手宣誓した青野繁夫氏は、自らの回想をこのような言葉で結んでいる。

 『私たちは世間の軽い同情を求めるものではない。真剣である。今後自らをより一層強く持して、将来に期待して、人間として与えられた使命を果たすごとく、鋭意努力したいと、この意義あるパラリンピックに参加して、心にかたく期した次第である』

 真勇な宣言から半世紀。東京は史上初めてパラリンピックを2度開催する都市という大役を担う。2020年の東京パラリンピックは、“健常者”と呼ばれる私たちに、何を伝える大会となるのだろうか? このままだと「いつも外国でやっている大会を、近くで見られてうれしい」という、索然とした結果に受け止められかねないのではないか? 開催1年を前に、そんな危惧を、ひしひしと、それでいて痛切に感じている。

 (ひめじ・まさのり、大阪市淀川区)



サイト内検索