澪標 ―みおつくし―

戦後の番頭さん、ぼんさんとの共同生活

西村 卓朗
西村機械製作所 会長
2019年9月16日

 今回からはこれまでの私の体験から学んだ人生の道しるべを書いてみます。

 さて戦後、私の父は昭和21年9月には桜川1丁目の、最もミナミに近い千日前通りで製粉機械(米、麦、蕎麦(そば)などの穀物の製粉機械)業を再開しました。うなぎの寝床のような細長い土地で、自宅、寮兼事務所兼作業場でした。そして5年後の3月には、なにわ筋沿いの西側の稲荷町2丁目に70坪を購入して、工場のみ新築移転しました。

 千日前通りにいた頃は、従業員も8人で、住み込みの番頭の山下さん、ぼんさん(でっちの事)で、長谷君、川田君、山田君の3人、賄いの女中さん2人、通いの職人さん1人、通いの事務員さん1人、家族は僕たち子どもが4人と、両親を入れて合計14人で毎日が合宿生活(笑)でした!

 番頭の山下さんはお得意先で、百済にある山内製粉所で働いていたところ、向こうの社長と父が特に懇意だったので、機械が好きな山下さんは円満退社で弊社へ転職して来ました。しばらくして、山下さんの田舎の福井県勝山市から、中学の後輩が大阪へ来て働きたいとの情報をもらいました。その年の秋、早速父と行って3人の方と山下さんの実家で会いました。面接をしたら即採用で、それがぼんさんの3人でした。私が中学1年だったので、彼らは二つ上の中学3年で3月卒業でした。

 その頃、山下さんの実家はおやつに越前ガニ、すなわちズワイガニの足が山のようにお盆に盛ってあり、カニ好きな私は遠慮なく食べましたがいくら食べても減らず最高でした。今と違ってカニがたくさん取れて安かったようです。

 さて、稲荷町の工場からは夕食時だけでなく、昼食時も帰って来るので、賄い担当の母と女中さんは支度に追われ、十数人分の準備で朝昼晩の食事に、掃除に毎日大変だったようです。ぼんさんも子どもたちも若いので食欲旺盛。そんな中、夕方6時には住み込みのぼんさん3人が帰って来て、僕たち子どもと一緒に夕食を取るのです。時々、女中さんが「今日は僕たち子どもには一品おかずが多いから、彼らが帰って来る前に食べや」と言ってくれました。夕方5時半には用意してくれた一品だけを食べて、何もなかったような顔をして6時になると住み込みの3人と子どもたち4人の計7人が一斉に夕食を食べたものです。あの賄いの女中さんが一品だけおかずを多くしてくれた日ははるか昔になり、ぼんさんにだまってこっそり食べた夕食は楽しい思い出となっています。

 昭和20〜30年代は食べることで精いっぱいで1部屋に2〜3人の共同生活で狭く、貧乏ながらも肩を寄り添っての生活。しかし、貧しい時代は人を育てました。朝は8時から夕方5時までの9時間、一生懸命に働き彼らが会社を盛り上げてくれました。後に番頭さんの山下さんは営業本部長の取締役になり、長谷君は工場長になり会社を発展させてくれました。

 子どもだった私は、今思えばいい思い出であり、それなりに楽しい時代でした。住み込みの社員が社長家族と一緒に共同生活をして会社を盛り上げてくれたおかげで、子どもたちも父やぼんさんの背中を見て育ち、社員、ぼんさんを思いやる気持ちや優しさを身につけたと思います。

 (大阪府豊中市、にしむら・たくお)



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