澪標 ―みおつくし―

三流サラリーマンの流儀(2) 流されるままに

宮崎 研之
株式会社日放メンテナンス代表取締役社長
株式会社プリティ代表取締役社長
2019年9月30日

 「終身雇用」「年功序列」−。今回はこうした言葉が違和感なく受け入れられていた頃の話です。

 私は第1次オイルショック後の就職難の時代に、今で言う「就活」を行いました。当時は大学4年の10月が会社訪問の解禁日だったと記憶します。法学部で民事訴訟法のゼミに所属していたため、司法試験を目指す仲間が多く、私もその影響で大学在学中に受験しました。しかし、十分な努力もせず真剣さもない私に現役合格など望むべくもなく、かと言って司法試験浪人をする覚悟もなく、現実的な選択は一般企業への就職でした。

 学業成績が優秀な同級生ですら「就活」に苦戦している中、私も十数社は会社訪問したと思います。志望は総合商社でしたが、当時の十大商社のうちの一部しか募集は無く、自然、業種に関わらず手当たり次第にいわゆる有名企業を訪問しまくりました。

 連戦連敗でした。最近はどうか知りませんが、当時は会社訪問をした当日の夜に、会社から電話があれば次の段階へ進むというのが一般的だったと思います。下宿先の共用電話が鳴るのを毎晩待ちました。何社かは2次面接、3次面接に進みましたが、内定まではなかなかたどり着きませんでした。最近の酷暑の中、黒いスーツに身を包んだ現役の就活生を見かけると、東京大手町のビル群の中で慣れないスーツを着て、途方に暮れていた自分の姿に重なり、「頑張れよ」と心の中で祈ってしまいます。

 さて、ある銀行から毎晩電話がかかってきて最終面接に進みました。もう会社訪問に疲れ果てていて、どこでもいいから早く決まってほしいというのが本音でした。内定が出た後、人事担当者から内定者で親睦ソフトボール大会をやるので逆瀬川グラウンドに行ってくれと言われました。「逆瀬川?」。聞いたこともない地名でした。どこかと聞くと兵庫県ということでした。そうか、関西系の企業ということはそういうことなのか。漠然と就職後も東京での生活を想像していた私の心に、にわかに暗雲が漂い始めました。

 その後銀行から入寮通知が届き、恐る恐る開くと「鳳寮」という記載があり、住所は堺市でした。関西勤務が決まった瞬間でした。その後、入行式までは流れに流されるだけでした。そうやって何の展望も、予備知識もなく関西系の都銀に入った私は、土地勘もない大阪府内の支店に配属され、カルチャーショックの荒海に投げ出されました。

 就職は必ずしも希望に満ちたものばかりではないのでしょうが、特に私の場合は業種も勤務地も希望と異なり、暗たんたる気持ちでの社会人生活スタートとなりました。キャリアアップのために転職も当然と捉える、最近の若者たちには理解できないかもしれませんが、終身雇用制が当然であった当時、嫌でもつらくてもいったん入った会社で頑張り抜くしかないと思い込んでいた私には、銀行を辞めるという選択肢はありませんでした。

 そして、全く想定外の「銀行員」という生活が始まりました。30年続くことになります。

 (大阪市都島区、みやざき・けんし)



サイト内検索