澪標 ―みおつくし―

ピアノを弾くわたしと、あなたとコーヒーを飲む私について

呉 多美
ピアニスト・オンガージュサロン主宰
2020年5月4日

 これまで「自分」について、それなりに考えてきた方だと思っていた。しかし、そんな思いはある時、吹っ飛んでしまった。妊娠・出産・育児がやってきたのだ。これらの体験を通して、「自分」が随分変わってしまったように思った。自分だと信じていたものが、突然そうとは感じられなくなり、音楽においても自分の変化に戸惑った。モーツァルトが弾きたくなるなんて、今までには考えられなかった。それとも、こういう体験を経ても変わらないものこそが「本当の自分」なのだろうか。

 出産前はジェンダー規範に対して批判的であったのにもかかわらず、再び家族制度の枠に押し戻され、「個人」としての私は解体されたように感じた。産後は「母」や「妻」という役割、あるいは地域社会でそれぞれの役割を担わざるを得なくなったが、時には自らその枠に収まろうとした。それまでは自分がどう生きたいかを軸にアイデンティティーを築いてきたが、他人にとっての「何か」がそれに取って代わった。このように、「自分」だと信じていたものとの齟齬(そご)や断絶は一種のアイデンティティー・クライシスとも言えるもので、ここに出産した女性が抱える産後うつや産後クライシスの本質があるだろう。

 ところで、4年前に自宅サロンで少し変わったコンサートを行ったことがある。それは「音楽と哲学の対話;ピアノを弾くわたしと、あなたとコーヒーを飲む私について」(司会/鈴木径一郎、ピアノ演奏/崔理英)というテーマで、演奏する時の自分と誰かとおしゃべりしている時の自分は同じだろうか?という問いを実際のピアノ演奏を通して投げかけるものであった。

 その際に読んだ平野啓一郎著『私とは何か』によれば、「本当の自分」は存在せず、対人関係ごとに見せる複数の顔がすべて「本当の自分」だという。それらは「分人」と呼ばれ、環境や対人関係の中で変化する。また、哲学者ジュリアン・バジーニは『エゴ・トリック』において、記憶・願望・信念・感覚などの中枢に「自分」があるのでなく、「自分」というのは全経験の集合体、言うならば単なる寄せ集めに過ぎないと述べている。固定的で永続的に同一の本質を持ち続ける「本物の自分」があるのではなく、「自分」は流動的でたえず変化し続ける。

 相手次第でいろんな自分になり、しかも変わり続けていくなんて、そんなアイデンティティーの在り方でいいのかと思いつつも、現実にはいろんな分人が私の中で生まれた。「あなたとコーヒーを飲む私」は、お母さんであり、ママ友であり、近所のおばちゃんであり、町内会の班長だった。

 だが、このような自己の分化は同時に統合への欲求を高める。この統合の機能を果たしたのが「ピアノを弾くわたし」であった。ある年、ピアノデュオの相方と連弾コンクールに出場することになり、子供を寝かしつけた後に猛練習をした。そこには母だけではない、妻だけではない、近所のおばちゃんだけでも班長だけでもない、すべての分人が統合された自分がいた。

 「演奏」は私にとっては誰かに聴かせるためのものではなく、分化された自己を統合するための行為である。そこに他者はいない。よって分化する必要もない。それは演奏が身体性を持ち、かつ音楽が言語化される以前の領域を扱うということに由来しているだろう。万象を表現する芸術作品に対峙(たいじ)するためには、分化されたあらゆる「自分」を召喚して総動員で挑まなければならないのだから。

 (大阪市天王寺区、オオ・タミ)



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