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澪標 ―みおつくし―





 

大阪府文化財愛護推進委員  
足代 健二郎
2006/03/14

司馬遼太郎の原点− 猪飼野の新世界新聞社

 前回書いた「司馬遼太郎の鶴橋・猪飼野」−の続きである。

 司馬さんは戦地から復員後しばらくしてから、大阪に帰って来たが、浪速区塩草の実家(福田薬局)は戦災で丸焼けになっていた。そのためやむなく奈良県北葛城郡磐城村竹内(現・葛城市)=二上山の南側を通る竹ノ内街道の竹ノ内である=の母の実家の親類に身を寄せた。

 そしてその年の暮れ、司馬さんは靴を買うつもりで今里(東成区)の闇市を物色しながら歩いていて、そこで偶然、電柱に「記者募集」の張り紙を見かけた。その時、後ろから声をかけられた初対面のOという男と一緒に応募し、二人は採用されたという。

 司馬さんはこの新聞社について、「猪飼野のカスバのようなゴム製造業者街のなかに、地下タビの匂(にお)いにまじって、その新聞社はあった。木造二階建て、輪転機もちゃんとある。社名は聞いたこともない名だったが、まぎれもなく、『日刊』と銘がふってあった」と述べている。(『名言随筆サラリーマン』福田定一=本名=・六月社・一九五五年)

 この会社に、司馬さんは昭和二十年の暮れから数カ月間勤めたにすぎないが、前掲書には、その記者としての原体験「松吉淳之助」という偏固な老記者の思い出、などが綴(つづ)られている。

 その新聞社の名は、O氏によれば「新世界新聞社」だという。

 その名の新聞の実物が、現在わたしが知る限りでは、たったの二枚だけ残っている。(ハングル版を除く)

 一枚は関西大学図書館に(第七百四十六号、昭和二十三年八月一日発行)、もう一枚は東大阪市善根寺の新聞文化資料館に(第千三百二十四号、昭和二十五年三月五日発行)ある。

 しかし社の所在地は二枚とも、「猪飼野」ではなく、「大阪市南区鰻谷西之町三番地」。(前者は発行人名「柳洙鉉」=後述)

 ところが、わたしはのちに、「新世界」という雑誌の創刊号(新世界新聞社、昭和二十一年十月一日発行)を入手することができた。その雑誌では社の所在地が「大阪市生野区猪飼野東五丁目八」となっている。

 この地番を土地台帳で調べてみると、その当時の土地の所有者は「柳洙鉉」。そしてこの人は『日本ゴム工業史』という本に、日本ゴム工業会理事などとして名前の出ている業界の有力者であったことが分かった。

 つまり、この雑誌「新世界」が手がかりとなって猪飼野・鰻谷・柳洙鉉・ゴム業界(前掲“地下タビ”の記述)のすべての関連が明らかとなったのである。

 そして偶然というものはおもしろいもので、わたしの友人の゙氏→゙氏とある場所でたまたま知り合ったM氏→M氏の古い友人の金厚植氏(大正十三年生まれ)というルートで、元・新世界新聞社の記者だったというその金氏のお話を伺うことができた。それを要約すれば次の通り。

 「終戦直後、ゴム会社の経営者だった柳洙鉉氏は“解放”された在日の活動家の強いすすめによって新聞社を興した。この社は日本語版とハングル版の両方を出していた。この二つは建物が別々だったので司馬さんのことは全然知らない。ハングル版は日本に活字の字母が無いため、ソウル帝大教授、ソウル経学院提学などを歴任し、のちに天理大教授となった高橋亨氏に依頼し天理教を通じて朝鮮から取り寄せ、ようやく発刊することができた。など」

 この新聞社は、司馬さんが辞めたのち、超一等地の鰻谷(大丸・そごうの北側)に本社を移し、東京・京都にも支社を置くほど急速に発展したが、世の中が落ち着き、在来の大新聞社が立ち直るにつれて、やがて姿を消した。しかしハングル版のみは、その経営を受け継いだ人が東京に拠点を移し、そこでかなり長く刊行されていたそうである。  (あじろ けんじろう 大阪市生野区鶴橋五)

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