澪標 ―みおつくし―

IT全盛の現代になぜ『そろばん』なのか

大垣 憲造 大垣そろばん資料館館長
2020年6月8日

 IT(インフォメーション・テクノロジー)が世界を席巻している現代社会において、一体なぜ超アナログ的な教具『そろばん』が根強く人気を保っているのだろうか。パソコンやスマホを使用すれば、瞬時に計算が可能なのに、あえて長い年月をかけてまで、子どもたちにそろばん学習を続けさせるのか。現代の不思議の一つかもしれない。そこを探ってみたい。

 実際、そろばん教具は過去に幾度か危機を乗り越えてきた歴史がある。明治維新後、新政府によって教育制度が大きく変えられ、その座が揺らぐことになった。

 明治5年、学制発布されると「数学はすべて洋算(筆算)にする」と急激な欧化政策を実施する。これには一般国民からもそろばん擁護の声が多く出た。もちろん、そろばんを否定する人々もいたので、その後は賛否の論争が続くことになる。

 文部省もこれは無視できず、明治6年、明治14年と徐々に法令を変え、ついに明治19年には「小学尋常科は珠算、高等科は筆算」という妥協とも思える改革が実施された。

 幕末、勝海舟とともに咸臨丸の航海長として渡米し、活躍した旧幕臣の小野友五郎は数学者としても優秀で、維新後もそろばんの必要性を文部省に訴え続けた。彼のような実績ある者の説得力は大きい。こうして、多くの先人たちの努力によって、そろばん教育は明治の難局を突破することができた。

 昭和39年、大阪の某電機メーカーが電子式卓上計算機を完成させ、5年後にはLSI(大規模集積回路)を使用した電卓を開発、さらに3年後には小型で安価な電卓が発売されると、たちまち普及したので、そろばんは新たな危機に直面する。世間は「そろばんよさようなら」の風潮になり、やがて本格的なコンピューター社会が到来すると、ますますその流れは加速することになった。

 しかし、ここでもそろばんは踏ん張り続ける。珠算教育団体が一丸となり、そろばんの良さを社会にアピールしたため、残ることができた。検定試験の受験者は激減し、そろばんの生産量も落ち込んでいるが、今のところ存在感を示している。でも、なぜなのか。

 それは、長年そろばん教育の良さをよく知っている日本人の英知ともいうべきだろう。佐伯胖氏(東大名誉教授)は「便利な道具をつかうと、その道具に頼ってしまい、それがないと頭がさっぱり働かなくなる−それが電卓だった。しかし、道具を使うと道具がいらなくなる道具もある−たとえばそろばん−(中略)つまりそろばんは人を賢くしてくれる道具だ。」と著書の『新・コンピューターと教育』(岩波書店)の中で述べている。学者の見解はそろばんの追い風になっている。

 現在、そろばんの普及は世界108の国・地域に広がっている。欧米はもちろん近年は中東や東南アジアのそろばん教室が大人気と伝え聞く。苦難を乗り越えたそろばん教育は、今後もITと共存できるのではないだろうか。

 (大阪府豊中市、おおがき・けんぞう)



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