澪標 ―みおつくし―

今昔、眼の話

澤井 貞子
大阪府眼科医会理事医療法人沢井眼科院長
2020年10月5日

 私は眼科医になって36年になります。今回は自己紹介もあわせ、眼科医の仕事について書きます。まず、なぜ眼科医になったかというと、私は学生結婚をしており、専門科を選ぶ医学部6年生の秋に、すでに1歳になる娘がいました。それで、命にかかわる疾患の多い科では患者さんと家で待つ子どもをてんびんにかけることになるのが申し訳ないと思ったこと、また自分が強度の近視で眼鏡やコンタクトレンズが手放せなかったこと、さらに女性の眼科医はきれいなイメージがある、などです。そんな理由で選んだ科ですが、眼科医としての半生、たくさんの喜びと幸運に恵まれました。ただし、他科の先生方も皆同様にご自身の科に誇りを持っておられるようなので比較はできませんが。

 医師になってみると、視力に不安を抱える患者さんを前に、眼科医は誰も家に帰る気持ちにならないことが分かりました。また、当時から眼科医の3割は女性でしたが、大学医局も学会も男性社会で、「女医さんは子どもができたら辞める」と言われていました。保育所の不足、育休制度が利用しにくいなどいろいろな理由はありましたが、優秀な女性医師たちがやむなく仕事を辞められたのは本当に残念な話です。今は眼科医の4割を超える女性医師のその多くが、第一線で日本の眼科医療を支えています。

 私は小学校4年生から近視で眼鏡をかけ始めました。男子から「ガリ勉」とからかわれ、父親には「眼鏡をかけたらお嫁に行けなくなるぞ」とも言われ、今ではハラスメントもいいとこです。中学生になってコンタクトレンズを使い始めると、眼鏡コンプレックスから一挙に開放されました。ただ当時、ハードコンタクトレンズは1枚2万円以上もしたので、落とすと大変。周囲が総動員ではいつくばって探す姿もよく見かけました。

 私もレンズをなくすたび、懐の痛手に泣きそうになりました。眼科医になって、コンタクトレンズ屋さんから試供品のレンズを無料でもらえた時は、眼科医になって超ラッキー! と小躍りしました。今は、そのコンタクトレンズも使い捨ての時代となり、一日1枚80円ほどです。

 高校生の時、土曜の夜中に両目の痛みで目が覚めました。痛くて目が開けられません。母が真夜中に私を車に乗せ市民病院まで走りましたが、当直は外科医で目のことは分からないと言われ診てもらえませんでした。結局コンタクトレンズ過剰装用による角膜障害で、治りはしましたが、母は「この子の目が治ったら、必ず医者にします」と土・日曜と祈っていたそうです。

 今は、眼科医院が開いていない時間帯は、平日は午前1時まで、土・日曜も午後10時まで、大阪市中央急病診療所に眼科医が当番制で出務しています。つまり365日、深夜帯以外は、大阪府内どこかで必ず眼科を受診できるということです。

 白内障手術も私が研修医の頃は、眼球の奥に麻酔の注射をして、最後に眼を縫う術式で、片目の手術でも2週間は入院が必要でした。今や点眼麻酔で、縫合無し、日帰り手術も可能です。この35年の間に、医療は進歩し、社会も進化しました。便利にはなりましたが、それで「今の世、生きやすくなったのだろうか?」と思い巡らす今日この頃です。 (大阪市浪速区、さわい・さだこ)



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