澪標 ―みおつくし―

「ありがとう」がパワーの源

小林 英健
近畿医療専門学校理事長
2020年12月7日

 紆余(うよ)曲折の末、私は銀行を1年で退職して整骨院業界に飛び込みました。銀行に入社した年の11月に、私は高校の同級生だった家内と結婚していたので、銀行を辞めるとなった時には家内のお父さんがやってきて娘を連れて帰ると言い出しました。しかし、その時に家内が「私は英健さんについていきます」と言ってくれたので、お父さんもあきらめて帰ってくれました。

 11月に支店長の仲人で結婚式を挙げ、12月には支店長に退職の相談をし、1月に専門学校を受験し、3月に退職し、4月からは整骨院で下働きをしながら国家資格を目指して専門学校に通う…という波瀾(はらん)万丈の一年でした。当時の月給はわずか8万円。しかし整骨院の仕事というのは患者さんから日々感謝され、喜んでいただける仕事だったので、私はこの仕事を「天職」だと思うようになりました。

 しかしその年の11月に長女が誕生し、家族3人で月8万円のますます苦しい生活が始まりました。学校の帰りに友達に喫茶店に誘われても、お金がなくて付き合えず、その時にタバコもやめました。家内は毎日、新聞の折り込み広告を見て野菜や卵を1円でも安く買おうと精いっぱい節約してくれました。私の親からは勘当されていたので頼るわけにもいかず、土日は家内の実家に夕食に行き、お米をもらって帰る、という生活でした。

 私は平日に整骨院、日曜日にはさまざまなアルバイトを掛け持ちしていました。綱渡りのような貧乏生活でしたが、気持ちはいつも前向きでした。それは、こんな私についてきてくれた家内を絶対に幸せにしたい、絶対に裏切らないという強い思いと、患者さまからの感謝の言葉のおかげでした。「ありがとう」の一言に疲れも吹っ飛び、明日から頑張るパワーになりました。「人の幸せはお金ではない」と実感できた時でした。

 そしてあっという間に2年がたち、学校を卒業して国家試験に合格しました。こうして晴れて柔道整復師となり、給料は12万円に上がったものの、3人が生活していくには十分とは言えません。そこで思い切って独立開業を考えるようになりました。柔道整復師とは、医療系国家資格の中でも医師や歯科医と同様に「独立開業権」があります。

 当時、たまたま通勤途中に売り出し中の土地を見つけ、銀行から全額借り入れし、そこに住宅兼整骨院を建てることにしました。万が一、失敗でもしたら首をくくらないといけないという重圧から、生まれて初めて「神経性胃炎」になりました。

 そして1985年11月1日に「小林整骨院」が開業、初日はご近所さんが来てくれて何とか無事に船出しました。来てくれた人たちの口コミで、患者さんは順調に増えていきました。私は今まで、人の縁に助けられてここまで来たので、今度は自分が縁のある人たちを助ける番だと思いました。

 もともと好きな仕事ですから、「すべては患者さんのため」という思いで寝ても覚めても患者さんの痛みを早く取ってあげたいと思いながら施術にあたっていました。たとえば、休日に子どものけがを診てほしい、また夜中に階段から落ちたおばあちゃんを診てほしい…と言われても、いつも喜んで診ていました。気づけば、地域で一番はやっている整骨院になっていました。

 でも、その頃の私の技術は大したものではなく、親切に診てくれるから患者さんが増えていったのでした。そんな時、私の治療家人生を大きく変えるような一大転機が訪れたのです。

 (大阪市北区、こばやし・ひでたけ)



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