澪標 ―みおつくし―

それでも彼女が休まない理由

西尾 光子
演劇・朗読指導
2021年4月26日

 朗読の講師を務めて、今年で7年目になる会がある。開始半年後に、73歳の控えめで物腰の柔らかな女性が入会してきた。声に出して読むのが好きという彼女は、第一印象とは違って意欲的で、注意をすると何度も読み返してきた。しかも、他の生徒への指摘にもメモを取る熱の入れようだ。

 ある日、彼女の発音がおかしいことが気になった。本人もしきりに目がかすむとか腕に違和感があると言う。パーキンソン病と診断されたのは、3年前のことだった。

 それでも彼女は、投薬治療を受けながら休まず稽古にやってきた。ろれつがおかしく、鉛筆さえも重そうに何度も握り直す姿を目にし、生徒のみんなも症状の進行を気にかけていた。

 開始時間が近づくと、みんなは「今どのへんやろ」「ちゃんと来られるかなぁ」と時計を気にしながら扉が開くのを待つ。彼女が現れると駆け寄る。仲間に手提げを預けた彼女は、壁に体がぶつかりそうな危うい足で席に着く。「大丈夫?」と声をかけると、一言ずつ探すように「お医者さんが『朗読は有酸素運動になるからいい』って」とほほ笑んだ。

 話すのも大変そうな彼女が声を出す番になると、はきはきと感情豊かに朗読を始めた。何事もなく表情筋と腹式を使っているように見えるが、症状から数倍の努力がいるはずだ。

 2年前の10月だっただろうか。彼女と駅まで歩いた時だ。「先生、施設に入ったの」と打ち明けられた。施設からは乗り換えが2回、2駅ともホームまで遠く、階段も急だという。私はつえを勧めようかと思っていたが、ゆっくりでも自分の足で歩く彼女の気力に、余計なお世話だとやめた。施設からは外出を控えるように言われているそうだが、それでも休まず稽古に来ていた。

 昨年は新型コロナウイルスの影響で教室は2カ月間休講となり、9月から再開した。彼女が顔を出したのは11月に入ってからだった。久しぶりに見る彼女は元気そうで安心した。「外出した後、10日間は部屋で待機が決められていて、外出ができるのは月に3日。通院と朗読と待機日を計算して予定を組むのが大変で」と困ったように言いながらも、どことなくうれしそうだ。右半身のしびれも大変そうだが、有志での発表会があるとわかれば積極的に手を挙げる。

 稽古が終わり、いつものように彼女と地下鉄の駅まで歩く。「施設は年寄りばっかりでしょ。他人のことは言えないけどね。気持ちが老けるのよ。朗読のみんなは私の家族みたいで、稽古日が待ち遠しくて。先生の指導で朗読の深さを知って楽しいし、稽古場にいる間は年も体のことも忘れてて…」と私の手を握り、「先生にこうして手をつないでもらえて」とにっこり。

 エレベーターを使わずに、手すりを頼りに危なっかしく階段を下りる彼女を見て、私は元気をいただく。

 (大阪市中央区、にしお・みつこ)



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