戦跡を巡る 戦渦を超えて75年

 今年は戦後75年の節目。戦争を体験した世代が少なくなる中、ちまたには軍関連の遺構や空襲の傷痕、犠牲者を悼む慰霊碑など、もの言わぬ戦争の証言者が現存している。しかし華々しい開発の陰で姿を消した戦争遺構も多く、運よく保存・転用されているものはごく一部にとどまる。令和の新時代を迎えてなお、人知れず戦争の戦渦と恒久平和を無言で訴える戦跡を写真で紹介する。

戦跡を巡る 戦渦を超えて75年(12)

2020年5月31日

茨住吉神社の神木(大阪市西区)

 茨住吉神社の境内、市杵島姫(いちきしまひめ)神社のそばにある神木。由緒には「樹齢六、七百年を数えた樟木の大木で多数の巳(み)が棲息(せいそく)して信仰の対象になっていましたが、戦災で焼損しました−」。木の表面には当時のものか、黒く焼け焦げた跡が分かる。


昭和橋の焼夷弾落下跡 (大阪市西区)

 1932年に完成したアーチ橋。橋長約83メートル、幅員約26メートルで木津川に架かり土佐堀通の往来を支える。橋上部西端の部材「橋門構」には戦時中の空襲で無数に投下された焼夷(い)弾が直撃したと伝わり、落下痕を残して激しく変形している。


薩摩堀公園の国旗掲揚台(大阪市西区)

 1940年の神武天皇即位2600年記念を奉祝し、地元関係者が同年に作成。正面の「八紘一宇(はっこういちう)」の文字は当時の陸軍中部軍司令官だった岩松義雄中将が揮毫(きごう)した。


疎開道路(大阪市)

 都市計画道路・豊里矢田線のうち大阪市東成区−生野区などにかかる約3・5キロを指す通称。太平洋戦争末期、民家密集地域に防火帯を設けるため、1944年春から1カ月余りで該当地域の建物が強制撤去されてできたことに由来する。「猪飼野(いかいの)郷土史」(1997年刊)によると、終戦直後も瓦や壁土で盛り上がったままの荒れ道で、昭和30年代に舗装されてから本格的な道路として利用されるようになったとされる。



サイト内検索