戦跡を巡る 戦渦を越えて

 戦争を体験した世代が少なくなる中、ちまたには軍関連の遺構や空襲の傷痕、犠牲者を悼む慰霊碑など、もの言わぬ戦争の証言者が現存している。しかし華々しい開発の陰で姿を消した戦争遺構も多く、運よく保存・転用されているものはごく一部にとどまる。令和の新時代を迎えてなお、人知れず戦争の戦渦と恒久平和を無言で訴える戦跡を写真で紹介する。

戦跡を巡る 戦渦を越えて(32)

2021年3月1日

歩兵第三十七連隊跡(大阪市中央区)

 1898(明治31)年、現在、国立病院機構大阪医療センターがある場所で編成を完了。以後、日露戦争終盤の奉天会戦に参戦したほか、太平洋戦争ではフィリピンやインドネシア、タイ、ビルマなどを転戦し終戦を迎えた。跡地である医療センター敷地内の東側(上町筋側)に三つの石碑が建つ。


御津八幡宮のクスノキ(大阪市中央区)

 今や多くの若者でにぎわうアメリカ村の一角に広がる境内には、1945年3月の第1次大阪大空襲で焼かれたクスノキの一部が残る。同空襲では社殿をはじめ周辺一帯が焼夷(しょうい)弾で焼失。クスノキのみが枯死状態で空襲当時の姿をとどめていたが、倒壊を避けるため約10年前に伐採された。


大阪陸軍飛行場(盾津飛行場)跡地(東大阪市)

 1934年に民間の寄付によって開設。関西学生航空連盟のグライダー練習場としても使用され全国大会が開かれたほか、軍事演習地にも活用された。終戦後は閉鎖・接収を経て、跡地は盾津中やトラックターミナルなどに姿を変えた。戦後半世紀の95年、盾津中校庭の一角に往時の姿を伝える銘板が設置された。


旧長柄橋橋脚の弾痕石(大阪市東淀川区)

 1945年6月7日の第3次大阪大空襲で被弾した橋脚の一部と、空襲の惨状を表現した樹脂像で構成する平和の碑「『奪われし者の叫び』の像」として柴島高の正門付近に83年に設置。像は当時の生徒が彫刻家金城実氏の指導の下で制作した。橋脚には直径約20センチの弾痕(2カ所)が残る。



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