大阪市史跡探訪

 家のご近所、見慣れた建物、公園の前に石碑が立っていないだろうか。その一つ一つが貴重な歴史資料であったり、今は見ることのできない跡を示していたり。身近にあふれるマジカルミステリー。碑文を読めば膝をぽん! 意外な発見、感心、納得の大阪市顕彰史跡を写真で紹介する。

大阪市史跡探訪(6) 東淀川区

2021年6月29日

 かつて東淀川区内に昭和初期の地元の風景を思い起こし、描く人がいた。丁寧な色使いの水彩画で、畑の中にぽつんと立つ寺や美しい水田、そして水路などを。その中には「平田(へいた)の渡し」もあった。跡ではなく、舟が行く絵を思い起こしながら、豊里大橋に向かってシャッターを切った。


平田の渡し跡 (豊里3丁目)

 1676年ごろに開かれ、1970年の豊里大橋が完成するまでの間、約300年近くにわたり活躍した。1907年に大阪府営となり、19年からは道路の一部と認定されて無料、48年以降は大阪市直営であった。大阪シティバス豊里駅の南約300メートル。



中島大水道跡 (西淡路5丁目)

 江戸時代前期に、北中島地域(東淀川区・淀川区・西淀川区)に属する22カ村の農民らが、水はけの悪さを改善するために切り開いた排水路。1899(明治32)年の淀川改修まで機能、現在は市街地化に伴い道路などに形を変えている。阪急電鉄淡路駅の北西約300メートル。


柴島晒[くにじまさらし]ゆかりの地 (柴島3丁目)

 江戸時代、大坂の周辺は綿花の栽培が盛んだった。柴島地区一帯は、淀川の流れを利用して木綿を洗い、それを干して乾燥させ、太陽にあてることで白く加工する晒業が営まれていた。明治期には大阪の主力産業の一つだったが、淀川の改修工事や柴島浄水場の建設などの影響もあり、次第に衰えていった。阪急電鉄柴島駅の北東約300メートル、柴島神社境内。


乳牛牧跡[ちゅうしのまき] (大桐5丁目)

 平安時代に牧場があり、乳牛を放牧、牛乳などの乳製品を朝廷に納めた。味原牧(あじふのまき)とも呼ばれていた。近世になっても地名として、また明治初期には小学校名として残っていた。大阪シティバス大桐一丁目の北東約500メートル。



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