大阪市史跡探訪

 家のご近所、見慣れた建物、公園の前に石碑が立っていないだろうか。その一つ一つが貴重な歴史資料であったり、今は見ることのできない跡を示していたり。身近にあふれるマジカルミステリー。碑文を読めば膝をぽん! 意外な発見、感心、納得の大阪市顕彰史跡を写真で紹介する。

大阪市史跡探訪(10) 平野区

2021年8月24日

 1974年、東住吉区からの分区により誕生した平野区。一方でその歴史は古く、旧石器時代から室町時代にかけての住まいや墓、水田跡などが大量に出土しているほか、中世には大阪・堺と並ぶ自治都市を確立した旧平野郷ゆかりの名所や旧跡もそこここに残っている。杭全神社境内には連歌所の遺構もあり、文化的水準の高さがうかがえる史跡もある。


杭全神社連歌所 (平野宮町2丁目)

 連歌所は江戸時代中期の1708(宝永5)年に再興。連歌とは、和歌の上の句と下の句を多数が交互につくり、一つの作品になるよう競う文芸で、平野郷の文化的水準の高さを今に伝えている。時を同じくして杭全神社は隆盛を極め、春日大社の本殿を移築した第一殿をはじめ、大阪市内最古とされる第二、第三殿を含めて国の重要文化財に指定されている。


平野環濠跡 (平野宮町2丁目)

 中世、大阪・堺と並ぶ自治都市として栄えた平野郷の周囲に巡らした濠は、排水、かんがい用に掘ったと考えられる。自衛の役割も果たし、繁栄の基礎ともなったが、時代の変遷とともに埋め立てられた。杭全公園内には平安時代初頭、平野郷の守護神として奉祀された杭全神社があり、同公園の北側の一部でその面影を残している。



瓜破遺跡 (瓜破東4丁目)

 1939年、瓜破霊園の建設工事中、墓地の入り口近く、地下1メートル余りのところに弥生式尖低式土器が見つかったのをはじめ、墓地の中央部から土器が多数出土した。瓜破霊園内には、瓜破古墳群に含まれる花塚山古墳も。5世紀ごろの築造と推定され、方墳であった可能性も指摘されている。


含翠堂跡 (平野宮町2丁目)

 1717(享保2)年、征夷大将軍、坂上田村麻呂の流れをくむ「平野七名家」の一つ、土橋友直ら平野郷民有志が設立した教育機関。経書購読、国学、医学、算学など文教の振興に貢献したほか、飢饉(ききん)救済資金として基金を積み立てるなどの活動も行った。1872(明治5)年の学制発布により閉鎖した。



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