亀井澄夫の妖精・妖怪世界の旅

イシス(エジプト)

2021年5月17日

食卓に母の愛を

トンビの羽を広げる豊穣の女神「イシス」(イラスト(C)合間太郎)

 現在のエジプトはイスラム教徒の国である。かつて偉大であったエジプトの神々も、今ではみやげもの屋の店先を飾るフィギュアでしかない。今のエジプト人にとって、ラーもセトも神ではなく、日本の妖怪のようなものなのだ。

 そんな中、最後まで神として生きたであろうものは、唯一「イシス」と思う。ミイラづくりで有名なエジプト魔術がすたれた後も、女神イシスは五穀豊穣(ほうじょう)の神として、人々の中に生き続けた。彼女には生活に密着した多くの要素があり、人々はまだ神を放棄せず、頼りにしていたのである。

 この偉大なる女神は母親らしい誠実さ、やさしさをもって、この世に生まれ出るあらゆるものを育てる。彼女の涙はナイル河の水かさを増し、氾濫しては土地を肥やす。彼女の魂はシリウス星にあり、数千年もの間、夏至の夜明けに輝くシリウスが、エジプトではナイルの氾濫を知らせるサインであった。ヨーロッパに信仰が広まるにつれ、初期のキリスト教にも影響を与える。彼女は神の母(アテム・ドミナ)と呼ばれ、この名は現在「マドンナ」という言葉となって、われわれは親しんでいる。

 イシスは時期によって姿が異なり、エジプト人のみやげもの屋では翼を広げたイシス像が人気だが、イエズス会士キルヒャー(1601〜80)が作った木版画は、頭に小麦が飾られ、左手にはナイルの氾濫を意味する手桶(おけ)を持ち、右足は大地の上、左足は水の中にある。つまり、水と土を統括する豊穣の神としての姿なのである。日本でも祭りの目的のほとんどが五穀豊穣である。やっぱり食料に直結する神は古今東西、人気なのだ。

 昨今では、人との会食もままならぬ世の中。人と人が笑い、喜びながら食べる時ほど幸せを感じることはない。この幸せをわれわれの手に奪還し、イシスのみならず、すべての母なる女神が食卓によみがえり、暮らしが愛に満ちたものになることを心より願う。

 (日本妖怪研究所所長)



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