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歴史でひもとく天神祭 〜伝統と変革のせめぎ合い〜

天神祭における変革の仕掛け 本来伝統と疑似伝統

祭日の変更 7月7日から7月25日へ

 平安時代に始まった天神祭は、千年を超える歴史を誇ります。その悠久の時空を振り返りますと、永々と受け継がれた「伝統」と、時代の変化に対応した「変革」のせめぎ合いの歴史だったともいえます。

 本連載では、その中から最も大きな三つの「変革」について、どのように「伝統」との折り合いを付けてきたのかをご紹介いたしましょう。

文:大阪大学招聘教授 大阪天満宮文化研究所研究員
高島幸次

▲「天満宮七夕祭」の図 大阪天満宮蔵
 毎年7月25日は、大阪の一番暑い夜です。いうまでもなく、天神祭の船渡御が大川に繰り広げられるからです。

 しかし、7月25日が祭日となったのは、意外に新しく、明治11(1878)年のことです。明治5年に新暦(太陽暦)が採用されたため、試行錯誤を繰り返した末に、明治11年に「7月25日」と定められて今日に至っているのです。

 天神祭は、天暦5(951)年に始まりましたから、今年で1062年目ですが、現在の祭日になってまだ135年しかたっていない、新しいでしょう?

 では、それ以前はというと、旧暦(太陰太陽暦)の6月25日でした。この日は、菅公(菅原道真公=天神様)のお誕生日だと伝えられます。ちなみに、太宰府への左遷の宣命が下ったのは2月25日、同地で薨去(こうきょ)されたのが1月25日ですから、毎月25日は天神様のご縁日というわけです。

 それはともかく、この6月25日の祭日も、実は戦国期の天正15(1587)年が最も古い記録で、それより古い時代には、7月7日に天神祭が行われていたようです。

 それは、現在地に天満宮が創祀されるより以前から、この地の鎮守社であった「大将軍社」の影響なのでしょう。大将軍の神は、「太白星(金星)の精」でしたから、星祭の7月7日が祭日でした。しかし、戦国の動乱の時代を経て、おそらく何回もの天神祭の中止を繰り返すなかで、菅公のお誕生日に変更されたらしいのです。

 このように、7月7日→6月25日→7月25日と祭日は変遷してきたのですが、この変更があればこそ、現在の天神祭の隆盛があるのです。

 仮に、当初の7月7日を今に続けていたら、菅公と天神祭の関係が不明瞭になったに違いない。6月25日に変 更したからこそ、江戸時代には、6月25日は菅公のお誕生日で天神祭というのが常識となったのです。
▲天満宮より古く、この辺りの鎮守社だった大将軍社
 明治の新暦採用に際し、旧暦6月25日を新暦の7月25日に読み替えたことも、今となっては英断でした。もし6月25日にかたくなにこだわっていたら、毎年の天神祭はかなりの確率で雨天の斎行になっていたはずです。まだ梅雨明けしていない可能性が高いですからね。

 このように考えると、伝統的な祭礼だから、ただ伝統を守るというのではなく、変更してきたからこそ、天神祭が盛んになってきた側面もあるのです。

 しかも、むやみに変更するのではなく、菅公の誕生日に変えるところがミソなのです。これならいかにも、古くからの伝統のように見えるでしょう。こういうのを「疑似伝統」といいます。変わらずに続いてきた伝統は「本来伝統」です。

 この二つの伝統の使い分けが、天神祭を隆盛に導いたのです。



御料車の変更 神輿から御鳳輦へ

 「御料」とは天皇や貴人の所有品、あるいは使用品に対する尊敬語です。ここでは陸渡御・船渡御における、菅公(菅原道真公=天神様)の乗り物を指しています。

 現在の渡御列の中心は、「御鳳輦(ごほうれん)」です。御鳳輦とは、屋形の上に鳳凰を飾った平安朝の厳かな雰囲気を漂わせる乗り物で、本来は天皇の公式の乗り物です。

 こう書くと、さすが千年の歴史を誇る天神祭だと感じられるでしょう?

 ところが、天神祭に御鳳輦が登場したのは明治9(1876)年のことなのです。

▲手前に鳳神輿、向こう側に玉神輿が 描かれている船渡御の様子 浪速天満祭(歌川貞秀) 大阪天満宮蔵
 それまでは、菅公は「鳳神輿(おおとりみこし)」に乗られ、ペアとなる「玉神輿」には法性房尊意が乗って、渡御の中心に位置していました。

 尊意とは、平安時代の仏教界の頂点である「天台座主」になった高僧です。菅公に仏教を教えたという伝承がありますが、史実では、尊意は菅公より21歳も年下ですから、少し無理がありますね。

 しかし、能の「菅丞相」や「雷電」などで、尊意が法力をもって菅公を調伏する場面が描かれますので、「荒ぶる神=菅公」を鎮める尊意のイメージは定着していたようです。

 このことを踏まえて江戸時代の絵画をみると、必ず鳳神輿と玉神輿が相並んで描かれています。つまり、江戸時代の人々は、菅公を「学問の神」として崇敬するだけではなく、当初の「荒ぶる神」として畏怖していたのです。そのため、菅公が渡御の途中で「荒ぶる神」になったときに備えて、尊意は絶えずそばにいるのです。

 ところが明治維新後の神仏分離政策によって、僧侶である尊意は神事にふさわしくないということになりました。ちょうどそのころ、明治天皇が地方行幸に御鳳輦を御使用されたのに倣って、天神祭でも菅公の御料車を御鳳輦に変えました。

 そして、尊意に代わって「荒ぶる神」を鎮める役目は、「手力男命(たぢからおのみこと)」と「野見宿禰(のみのすくね)」に委ねられました。手力男命は、天の岩戸の隙間を力づくで広げ、天照大神を外にお連れした神様です。一方の野見宿禰も、相撲の祖とされ、当麻蹶速(たいまのけはや)を負かしたことで知られます。ともに怪力で「荒ぶる神」を鎮めることを期待されたのです。
▲陸渡御で大阪市中央公会堂前を巡幸する御鳳輦
 話を御料車に戻しますと、御鳳輦の登場も、実は「疑似伝統」でした。もし仮に、御鳳輦ではなく、イギリス王室に倣った馬車が登場していたらどうでしょう。だれもが違和感を持つでしょうね。ところが、近代に登場したものであっても、平安朝の古式ゆかしい御鳳輦だからこそ、人々は安心して受け入れたのです。

 しかも、この結果、「静の御鳳輦」「動の両神輿」がバランスをとって、天神祭の魅力を増しているのです。「疑似伝統」恐るべしですね。

コースの変更 下航から遡航
 毎年7月25日の夜は船渡御が行われます。大川を約100艘(そう)もの船が航行する、天神祭のクライマックスです。では、そもそも船渡御とは何でしょう?

 まずは、そこからお話ししなければ。

▲渡辺橋の近くにあった新大阪ホテルの広告(天神祭船渡御路線図)
 「渡御」とは神様や天皇がお出掛けになることをいいます。天神祭の場合ですと、日ごろは本殿の奥深くに祭られている神様が、年に一度だけ、地域の無事平安を見回るために巡幸されることを言います。

 一般的には、神様は乗り物で渡御されますが、天満宮の場合は、その氏地が西方へ遠く伸びているため、乗り物で巡幸したあと、船に乗って大川下流の御旅所に向かうのです。その前半が陸渡御、後半が船渡御です

。  この「天神祭船渡御路線図」は、昭和12(1937)年のコースを描いています。天満宮を出た陸渡御は、天満警察前の乗船場に向かいますが(現在の鉾流(ほこながし)祭場です)、ここまでが陸渡御です。

 ここから乗船して堂島川を下航、木津川に入ると、木津川橋下流左岸の大阪府工業奨励館前(旧大阪府庁跡)で下船し、再び陸路で大渉橋を西へ渡り、松島(現、千代崎)の御旅所に向かうのです。帰りは、この逆コースでした。

 この間、木津川橋上流右岸からは「御迎え船」の船団が、堂島川を遡航し、桜宮橋下流辺りまで進み、Uターンします。年1回の神様のお出ましを奉祝するために、御旅所周辺の町々が仕立てた船団です。

 さて、ここからが問題なのですが、本来はこのように、神様は大川を下航して、御旅所に向かいましたが、戦時中の渡御の中止を経て、戦後に復活しようとしたとき、大江橋付近の地盤沈下により、橋下を船がくぐれなくなったのです。

▲大川を航行する船渡御の船団
 この地盤沈下は、辺りのビルが地下水をくみ上げすぎたためだといいます。大阪駅も、正面から入るとすぐに7段の階段を下りなければなりませんが、あれも地盤沈下のせいです。

 そこで昭和28(1953)年から船渡御のコースを、現在のように大川を遡航するように変更したのです。これは伝統を断絶させかねない、大きな変更でした。しかし、ここでも「疑似伝統」の知恵が生かされます。それは、この変更によって御迎え船の出る幕がなくなったことへの配慮でした。御迎え船にあたる船団を、大川上流に配置し下航するようにしたのです(現在は飛翔橋から出航しています)。この工夫によって、川の上下から船団が行き来するという江戸時代以来の形式が守られたのです。

 そして、コースの変革に伴い、かつては御旅所のなかで行われていた神事を、「御鳳輦(ごほうれん)奉安船」上で行うようにしたのです。このおかげで群衆は川岸からそれを眺めて、天神祭が神事であることを再認識する効果を持ちました。やはり変更が天神祭に益したのですね。


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