トップ趣旨詳細アクセス協賛企業・団体の募集Info天神祭の歴史
天神祭トピックス お迎え人形スタンプラリー 祭りに花を添える女性たち
歴史でひもとく天神祭 〜伝統と変革のせめぎ合い〜

浪速天満祭を読み解く 歴史でひもとく天神祭

 江戸時代の天神祭を描いた「浪速天満祭」は、作者の遊び心と、勘違いに満ちて、いくら見ていても飽きるところがない。しばし江戸時代へタイムスリップを。

文 大阪大学招聘教授 高島幸次

 「浪速天満祭」は、歌川派の浮世絵師・五雲亭貞秀が、安政6(1859)年に描いた木版画です。貞秀は、江戸後期から明治初年に活躍し、精密な俯瞰(ふかん)図を得意としました。この三枚続きの大判錦絵も、大川の船渡御を俯瞰しています。

 タイトルの「浪速」には「おおさか」とルビが打たれています。「天満祭」は、もちろん天神祭のこと。菅原道真公の御神号は「天満大自在天神」ですから、上の二字で「天満祭」、下二字で「天神祭」という訳です。

全体の構図
 まずは、全体の構図を概観しましょう。現在の天満警察署の上空辺りから東南東に大川を俯瞰しています。手前が天満、川向うが船場、右が西方、すなわち大川下流です。

 右下に大きく難波橋が架かり、左手に天神橋、その向こう(左手)に天満橋が遠望できます。現在の難波橋は堺筋に架かっていますが、江戸時代には、堺筋より一筋西側の難波橋筋に架かっていました。

 また、現在の中之島の東端は、天神橋の上流辺りですが、当時は現在の大阪市中央公会堂付近でした。そのため、この図に中之島は見えません。

 その後、川が運ぶ土砂の堆積により、天神橋の上流にまで東端が伸長しました。ですから、この図の中央部は、現在では剣先公園になっています。

 当時の船渡御は難波橋北詰め西側(右手)で乗船し、下流に向かいました(ただし、神輿の船は天神橋から乗船)。

 中央の打ち上げ花火の左右に「玉造社」「真田山イナリ」と注記されるのは、大阪城の南方に位置する玉造稲荷神社と三光神社のことです。

左 面
@天神橋
 橋の上には夥しい群衆と提灯が描かれ、北詰め(手前)には「天神橋大かがり火は、御輿(神輿)の帰りまで焚く」の注記が見えます。船渡御はここから下流(右手)に向かうので、上流の天満橋には提灯も群衆も見えません。

A地車
 右下に地車(だんじり)が見えます。最盛期には71輛もの地車が曳かれましたが現在は1輛だけになりました。屋根の注記は「京 ぎおんばやし・江戸 ばかばやし・大坂 だんじりばやし」と三都の比較です。

B宇治川 佐々木人形
 宇治川の先陣争いで知られた佐々木高綱の御迎え人形(現存しています)。「田」の字に見える旗指物は、佐々木氏の家紋「四つ目結」です。文楽・歌舞伎の『近江源氏先陣館』は、大坂夏の陣を鎌倉期に置き換えていますから、この高綱は、実は真田幸村なのです。

C清正人形・関羽人形
 佐々木高綱の手前には加藤清正の人形が描かれますが、現存しません。その右手には現存する関羽。江戸時代には、歌舞伎十八番の一『閏月仁景清(うるうづきににんかげきよ)』で有名でした。

D榊万度
 「万度(まんど)」とは、何度も(何万度も)祓をしたという祓串(はらえぐし)をいいます。大坂では、榊を添えた「榊万度(さかんぼ)」に発展し、地車の曳(えい)行などを先導する役目を果たしました。その右の「梵天先達」も同様の役目です。

E大坂城・八軒家浜
 天神橋の向こうに大阪城の櫓が並んでいます(当時、天守閣はなかった)。天神橋の下橋脚の隙間に「八けんや、舟やと(宿)、伏見迄、夜船の岸なり」の注記が読めます。江戸時代には、伏見との間を「三十石船」が往復していました。八軒家を朝に出た「上り船」は夕に伏見に着き、伏見を夕に出た「下り船」は早朝に八軒家に着いたといいます。

中 面
F鳳神輿・玉神輿
 現在の天神祭では、天神様を戴く「御鳳輦(ごほうれん)」が陸渡御、船渡御の中心ですが、江戸時代には天神様の乗る鳳(おおとり)神輿と、法性房尊意の乗る玉神輿の二基が中心でした。尊意は天台宗の高僧で、天神様が「荒ぶる神」になったときに法力で鎮める役目を期待された神様です。そのため、船上でも相並んで渡御しました。両神輿は、他の船と異なり天神橋北詰で乗船しました。

G肥し舟
 この船には「此時はこやしぶね(肥し舟)までかひあげ(買い上げ)、のり(乗り)て出るなり」と説明されています。江戸時代には大坂市中の糞(ふん)尿を汲み取り、郊外の農村に届ける「肥し舟」が大和川や寝屋川などを行き来していました。天神祭には、それらの舟までが船渡御見物の船に仕立てられたのです。

Hチボ
 水菓子屋の前を頬被りした「チポ」が逃げています。「チポ」とは、正しくは「チボ」といい、「スリ」のことです。これだけの大群衆ですから悪い奴もいて当然。後ろから被害者が追いかけています。はたして捕まえることができたのでしょうか。貞秀の遊び心が覗える一景ですね。

I猩々人形
 一般に猩々(しょうじょう)はオランウータンがモデルだというが、この人形は、祝言の能「猩々」のシテ(主人公)。海中に住む猩々が、親孝行の高風(脇役)の前に現れ、酒の徳をたたえて酔態の赤ら顔で舞い、また海に帰っていく。

J山姥・怪童丸
 この御迎え船には、人形浄瑠璃『嫗山姥(こもちやまんば)』から採った御迎え人形「山うハ(姥)」と「怪童」丸が飾られています。怪童丸は、のちの酒田公時(坂田金時)のこと。現在、「酒田公時」の御迎え人形はありますが、この「山姥」と「怪童丸」の人形は伝わっていません。

右 面
K葭屋橋
 今も東横掘川に架かる「葭屋橋」です。当初の葭屋橋は、航行を妨げないように川中に橋杭のない構造でしたが、天保9(1838)年に一本の杭が立ちました。ですから、この安政6(1859)年の図に「此はし(橋)ハくい(杭)なし」と注記しているのは、古い情報によった貞秀の間違いです。

L大おどり
 難波橋の上の一団に「橋上にて大おどり有」の説明があります。大踊とは大勢で踊ることを言いますが、ここでは「雀踊」の群舞のように見えます。画面の左下には、楽しそうな雰囲気に釣られて、通行人も踊っています。

M火の見台
 「りやうり(料理)茶屋」の屋根上の火の見台に上って船渡御を楽しむ様子が描かれています。「此火の見にて涼む」の説明とともに、「小てうちん(提灯)多し」「布の天井」と見え、まるでビアガーデンのようですね。幕末の志士、清河八郎も、旅宿の火の見台で見物したことを紀行文『西遊草』に記しています。

N大福長者
 「是ヨリ大福長者多キ町ナリ」と説明されるように、今橋辺りには両替商が多く、鴻池善右衛門や天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛などの豪商が住んでいました。井原西鶴『日本永代蔵』には、「難波橋より西、見渡しの百景。数千軒の問丸、甍をならべ」と描写されています。

O水菓子舟
 難波橋下の舟に横付けして「水菓子」を売ろうとしている舟が描かれています。水菓子といえば、現在では「水ようかん」などの菓子類を思い浮かべますが、江戸時代には「果物」のことでした。中面の下方にも、軒下に「水」「菓」「子」と書いた提灯を吊るす店が見えます。すぐ近くの「天満青物市場」(天神橋北詰東側)では、青物(野菜)だけではなく赤物(果物)も取り扱っていました。


トップへ