人生はキャッチボール(下) 女子プロ野球の先駆者・高坂峰子さん 

55年ぶり野球の世界へ 記事が縁で仲間と再会

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 1950年に発足した日本女子プロ野球。プロ野球選手として国内各地への遠征試合や芸能人との“花試合”に明け暮れていた高坂(こうさか)峰子さん(89)だったが、シーズンオフになると試合がなくなり、女子プロ野球自体が自然消滅した。

百貨店のチームへ

 寂しい思いをして日々を送っていた高坂さんに飛び込んできたのが戦後、米軍が接収していたそごう百貨店の再開だった。その当時、大阪には百貨店が6店舗あったが、その全店に野球チームがあった。

 高坂さんは「私も百貨店のテストを受けてみよう」と応募すると、合格。入社後、野球がやりたい一心で入部した。その後、百貨店の役員の支援もあり、女子部員を募り女子チーム「そごうフラワーズ」の結成にこぎつけた。昼間は試合に参加し、仕事と野球の二重生活がしばらく続いた後、21歳で結婚。「野球も全部忘れよう」と自分に言い聞かせて家庭生活に入った。

劇場「中座」の火事

 家庭生活を送っていた高坂さんだったが、1999年、高坂さんが66歳の時に夫光明さんが亡くなった。光明さんは51年に開店したコーヒー店「アラビヤコーヒー」(中央区難波)を営んでいた。「1人で家に居ても老けてゆくだけだから」と、光明さん亡き後、長男の明郎さんが後を継いでいる店を手伝うことにした。

 そんな高坂さんを再び“野球の世界”に呼び戻したのが2002年9月に起こった、300年を超える歴史がある道頓堀の劇場「中座」の火事だった。「当時、連日、新聞記者の方たちが私の店を打ち合わせや待ち合わせの場所にお使いになっておられたんです。その中のお一人が私が元プロ野球の選手だったことを知り、関心を持たれて紙面で紹介していただいたんです」

「大阪シルバーシスターズ」結成

 その記事が機縁になり、元メンバー14人の消息が判明。55年ぶりの再会を喜び合い、再び野球の練習をすることになった。

 「いつしか、おばあちゃんのチームとして有名になっていきました」と苦笑いを浮かべる高坂さん。

 05年には、京セラドーム大阪を本拠地とするオリックスから始球式の依頼を受けたり、その当時の仰木彬監督らメンバーと記念撮影をしてもらったり、野球が縁で夢のような生活が続いた。

 同年、「正式にチームをつくろう」と元チームのOG14人と「大阪シルバーシスターズ」を結成。当時、すでに平均年齢が70歳を超えていたが、メンバーらはコロナ禍前まで練習に励み、高齢者や少年野球チームなどと交流戦を楽しんでいた。

 高坂さんは野球人生を振り返って「野球をやっていたおかげでいろんな人と出会い、貴重な経験ができて感謝の言葉しかありません」と笑顔で話してくれた。

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