実家じまいに感じるさびしさ

思い出を形あるまま残せるか

金井啓子の伴走で伴奏

 私は住宅街の散歩が好きだ。日中に家の外観を眺め庭の木や花をめでるのも楽しいし、夕方に家の中に明かりがともって人の気配を感じるのもワクワクする。

 そんな散歩中に更地や新築の工事現場に出くわし、「ここには何があったっけ?」と考え込むことがある。何度も目にしたはずなのに、家が消えると思い出せない。

 建物が消えるのにはそれぞれ事情があるのだろう。遠方で働くことになったり、相続税が高すぎたり、親が亡くなり子どもは既に自分の家を購入していたり…。

 それでも、見慣れた建物が消えてしまうとさびしくなる。

 散歩中に感じるそんなさびしさが、最近やや違う形で身近に感じられてきた。それは、同世代の友人から、実家を処分するいわゆる「実家じまい」の話を聞くことが増えたせいである。

 私たちの親世代は80代や90代。死去や高齢者施設への入居が増える年齢だ。それに伴って、子どもが離れた後は親だけで住んでいた実家が空き家となる。家は使わなければ朽ちていくし、手入れのための頻繁な里帰りが難しく、売る判断に至るようだ。実際の実家じまいの話をいくつも聞いたし、「空き家をどうしようか」という声も耳にした。

 私が生まれ育ったのは4階建ての団地である。14歳まで住んだその団地は250棟ほどある大規模なものだったが、今はそのほとんどが姿を消した。だが、私が住んでいた棟を含む5棟が保存され、高齢者・若者・庭いじりが好きな人たちに向けた住宅として利用されている。15歳から10年余り住んだのが9階建てのマンションである。私が独り立ちし、弟が自分の家を買い、父が亡くなり、母が施設に移った今、その実家は空き家だ。

 帰省の際に団地やマンションの前に立つと、幼い頃に作った「秘密基地」や、手芸を教えてくれた近所のおしゃれな女性を鮮明に思い出す。

 30年近く前に住んだロンドンの家は、住む人は全く変わったが見た目は今もそのままだ。国によって、気候、地震の頻度、税制などが違う。それでも、人の歴史としての家の多くが全く消えてしまう今の日本の在り方はなんとかならないかと感じる。

 空き家となった私の実家には、近所に住む弟が今はほぼ毎日通ってくれている。洗濯機や温水洗浄便座が故障していたが、最近新しいものを買った。実家じまいをせず、思い出を記憶の中だけではなく形のあるままいつまで残せるか、試してみたい。

 (近畿大学総合社会学部教授)

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