きらめきびと

祥ちゃんの生きざまを知って

作詞家
もず 唱平さん
2020年5月29日

 「祥子さんは聴診器で釜の人たち一人一人の心の訴え、生きざまに耳を傾けていたんだと思う。多くの人に聴いて歌ってほしい」−。

 大ヒットした演歌「釜ケ崎人情」(歌・三音英次)で1967年にデビューしたもずさんが、釜ケ崎(通称・あいりん地区)で献身的な医療活動を続けながらも34歳の若さで不審死した医師、矢島祥子さんにささげる「祥ちゃんの聴診器」(作曲・矢島敏、歌・高橋樺子)を作詞した。ライブハウスや祥子さんをしのぶ集会などで披露し、「心の琴線にふれる歌」と参加した人たちで歌われている。

 もずさんは報道で“祥ちゃん先生”と親しまれ、釜の人たちに献身的に医療活動をしていた祥子さんの存在を知り、作詞家として祥子さんにささげる歌を書くことを決意した。

 いったん詞を書き始めと26、27歳のときに「釜ケ崎人情」の作詞のために毎日のように釜に通い、釜の人たちの話に耳を傾けた日々の光景がよみがえってきた。

 「祥ちゃんの聴診器」は「もっと生きたかった この町に/もっと生きたかった 誰かの為(ため)に」で始まる。歌詞の中でつづる「鳶(とび)職で鳴らした権爺(ごんじい)」「親に背いたフーテン」「昔名のある踊り子」「捨てた我が児を想い出し 泣いているひと」と、祥ちゃん先生が一人一人に聴診器を当てるくだりの詞は、もずさんが実際に出会った人たちへの思いを表現した。昨年暮れに完成し、「釜に寄り添い生きていた祥子さんの存在を一人でも多くの人に知ってほしい」と話す。

 大阪の河内で育ち、半世紀以上の作詞家生活で、73年度レコード大賞ロングセラー賞金賞を受賞するなど400曲以上の作品を生み出してきた。なかでも、「“七分五厘でも人は生きられる”と歌詞で表現した『釜ケ崎人情』は一番、思いのある曲」と振り返る。81歳、大阪府枚方市。



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