大阪市史跡探訪

 家のご近所、見慣れた建物、公園の前に石碑が立っていないだろうか。その一つ一つが貴重な歴史資料であったり、今は見ることのできない跡を示していたり。身近にあふれるマジカルミステリー。碑文を読めば膝をぽん! 意外な発見、感心、納得の大阪市顕彰史跡を写真で紹介する。

大阪市史跡探訪(14) 生野区・平野区

2021年9月26日

 万葉の時代からの歴史が継承されている大阪市生野区。行政区名は、舎利尊勝寺の鐘に刻まれている、聖徳太子ゆかりの「生野長者」にちなむ。“大阪五低山”に数えられる御勝山(おかちやま)古墳は、大坂冬の陣で徳川秀忠が布陣し、戦勝の宴が開かれたことから「岡山」を「御勝山」と呼ぶようになったとされる。南に隣接する平野区ともに、現在もだんじりなどの伝統行事が守られ、下町の風情を残している。



つるのはし跡 (生野区桃谷3丁目)

 日本書紀には「猪甘津(いかいのつ)に小橋(おはし)を作った」との記述が見られる。記録に残る日本最古の橋で、平野川(旧大和川)に架けられたもの。名の由来は、鶴が多く集まっていたとも、「津の橋」がなまった、とも言われる。1874年、平野川が深く掘り直された際に木橋から石橋に架け替えられ、当時の親柱を保存して橋跡の碑が建てられた。


平野郷樋尻口門跡 (平野区平野東2丁目)

 戦国時代、平野郷は自衛のために環濠(かんごう)集落を形成し、出入り口にはそれぞれ門と門番屋敷、地蔵堂を設けて警護に当たった。これらは13カ所あり、樋尻口門は八尾久宝寺への出入り口となっていた。1615年の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)が地蔵堂に地雷を仕掛け、休息に訪れた徳川家康が席を外した際に爆発。命拾いしたという伝承がある。


平野の黄金水 (平野区平野東2丁目)

 平野は低湿な土地柄で、飲用に適合しない井戸が多かった。その中で、この井戸だけは良質の水が湧き出て、上水道が普及する近年まで多くの住民が利用していた。また、平野の酒造業にも活用されるなど、環濠(かんごう)がはりめぐらされた自治都市、平野郷の発展を支える上で大きな役割を果たしてきたと言える。


大阪慈恵病院跡 (生野区生野東2丁目)

 大阪に医療施設が少なく、貧弱だった明治20年代。生活困窮者を対象に、緒方洪庵の子、惟準や高橋正純ら医師が中心となって「慈恵会」を組織した。東区(現在の中央区)にあった円光寺での診療を皮切りに移転を重ね、1924年に当地へ移った後、45年に戦災で焼失した。現在の市立弘済院付属病院の前身。市立生野工高の構内にある。



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