澪標 ―みおつくし―

まちかど昭和写真展「あのころの阿倍野」

寺西 興一
大阪府登録文化財所有者の会事務局長
「どっぷり、昭和町。」実行委員会会長
2017年6月9日

 人生は、人との出会いで思いもよらないことが起こるものである。

 平成18年「どっぷり、昭和町。」のお祭りが始まった数年後のことである。まち歩きを主催している夏井重行氏が大阪府立大学の中村治教授を連れて来られた。

 要件は、わが家が登録文化財で築80年を経過していることから「家に古写真があるのでは?」ということであった。中村先生の専門は西洋哲学で、授業で先生が住んでおられる京都の古写真を使って授業をされていたが、社会人学生である夏井氏から「京都ではなく大阪の写真で授業をしていただきたい」と質問されたのがきっかけであった。

 私の家には、祖父の写真があったが、先生の望まれる日常生活を記録したものはほとんどなかった。昭和初期、写真は貴重で高価だったので、冠婚葬祭のものがほとんどであった。

 しかし、近隣の人を訪ねると、阿倍野区は戦災にあまり合わなかったことが幸いし、押し入れなどで眠っていたアルバムなどを見せていただけた。これらの写真をお借りし、複写させてもらい、それだけでは宝の持ち腐れなので、「どっぷり、昭和町。」のお祭りの時に「まちかど昭和写真展」として自宅の塀に展示させていただいた。年配の方からは懐かしがられ、若い人は驚きの表情で眺め、地域の人の評判になった。

 私は、長屋のまちなみの風景写真が出てくればよいぐらいに思っていたが、戦前、戦中、戦後の暮らしに関する多くの写真が寄せられた。

 特に戦時中、戦死された「英霊」を迎える行列の写真や自宅での遺影の前での家族写真は、そこに込められた家族の思いがひしひしと伝わってきた。また、戦時中の学童疎開の写真は、今では死語となっていたと思っていた疎開という言葉が、福島の原発事故で復活するという皮肉なことになった。

 戦前、大きな被害を出した室戸台風の時には、各家庭に台風接近の情報が伝わらなかったことが大きな被害につながったといえる。

 戦後、初めてテレビが放映された時、近所の人がテレビのある家に集まり、床の間に置かれたテレビに見入っている写真があった。テレビ1台で家が建つといわれた時代である。

 終戦の年に生まれた私は、そのすぐ前の戦中のことは記憶にないのは当然だが、今回、戦地に行った方が写真を見ながら家族にも一切語っていなかった話をとつとつと話してくださった。古写真は親から子へ、子から孫へ、伝えるべきことを語ってくれ、そして、それらが集まれば、地域の歴史を語る貴重な遺産といえる。

 これらの写真が家族の思い出にとどまらず、地域の住民と共有することによって、隣近所の人たちを結びつけ平和な地域づくりに貢献できるものであると信じている。そして、これらの写真は、中村先生が「あのころの阿倍野」という写真集に結実してくださり、多くの皆さんに喜んでいただけた。

 (てらにし・こういち、大阪市阿倍野区)